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【日本代表】齋藤学が語る五輪、そしてフル代表 (2ページ目)

  • 小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki
  • 藤田真郷●写真 photo by Fujita Masato

 齋藤学は横浜F・マリノスの下部組織育ち、日本サッカー協会主導の「エリートプログラム」一期生でもある。育成年代の星として、AFCU-17選手権では柿谷曜一郎、水沼宏太らと韓国、イランを撃破。この年代では史上初めてアジアを制覇し、FIFAU‐17ワールドカップ2007にも出場、世界を体感している。そして08年には高3にしてF・マリノスでトップデビューを飾った。

 輝かしい育成時代ではあるが、それはプロとして成功する手形にはならない。

 2009年10月、サテライトリーグの試合。彼は左ひざ半月板を負傷し、全治6ヵ月と診断されている。プロ2年目、半年に及ぶ離脱は一つの試練だった。

「ドクターに『若いから再生する』と言われ、半月板は取らずに済みました。それは不幸中の幸いでしたね」と齋藤は言う。コバルトのシャツの鮮やかさと爽やかさが、いかにも彼らしい。

「退院してから、『リハビリで元通りになる』と言われていたんですが、そのリハビリがめちゃきつくて。膝の筋力を高めるパワーマックス(エアロバイク)をトレーナーが付いてやるんですが、苦しくてすぐ吐いちゃうし、泣いちゃったり(笑)。恥ずかしくて人に見せられたもんじゃなかったです。2日に1度でしたが、乳酸が溜まってよろよろして"生まれたての子鹿"みたいになっていました」

 2010年4月に戦列復帰。しかし、元々レギュラーをつかんでいたわけではなく、居場所はなかった。同年7月に高3の小野裕二が彗星のように登場、マスコミは意気盛んなプレイスタイルに色めき立っていた。

「試合をスタンドから見る機会が増えて、周りにはいじられましたね。なにより、2歳年下の(小野)裕二の才能を認めてしまいそうな自分がいたんです。このままじゃダメだ、と思いましたね」

 09年、10年と、F・マリノスでの試合出場数は増えるどころか減っていた。気が付けば、プロとして進路を問われる立場にいた。プロの世界では、3年で結果を出せないとフェイドアウトしていくケースが多い。ルーキーの瀬戸際だった。

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