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【なでしこ】夢舞台で躍動した川澄。転機になった5年前のアクシデント (2ページ目)

  • 柳川悠二●文 text by Yanagawa Yuji
  • 田口有史●撮影 photo by Taguchi Yukihito

 川澄にとって五輪は、夢の舞台だった。同時に、遠い舞台でもあった。なでしこジャパン入りと翌年の北京五輪出場が現実的な目標となっていた2007年(当時、日本体育大学4年)の4月、川澄は練習試合中に左膝前十時靱帯(じんたい)を断裂する。

「ルーズボールを追って、ターンしようとしたら膝だけが回ってしまったんです。そのときのことは鮮明に覚えていますね。『ブチッ』という靱帯の切れる音がしましたから。ただ、痛みよりも、"あれ、なんで立てないの?"って感じだった」

 手術を要する全治8カ月の重傷だった。当時は大学卒業後の進路も決まっておらず、五輪の夢が絶たれたのも同然の状態では、自暴自棄になってもしかたなかっただろう。

「五輪はずっと目指していた舞台だから、悔しい思いはあったと思うんです。ただ今振り返っても、悲壮感はなかったし、元通り動けるようになるのかという不安もなかった。アスリートで同じケガから復帰した例はいくらでもある。リハビリ期間中にしかできないことをやろうと、前向きに考えられていました」

 リハビリは松葉杖を使った歩行練習から始まった。しばらくしてギブスが取れた自分の足を見たとき、愕然とした。

「女子高生のような細い足だったんです。一度メスを入れただけで人間の足はこんなに筋肉が落ちるんだなって、新しい発見の連続だった(笑)」

 大ケガがあったからこそ、今の自分がある――そう思えたのは、リハビリによって体幹トレーニングの重要性に気づかされたからだ。

「走り込みができない分、バランスボールなどを使った体幹トレーニングに時間を割きました。復帰してすぐ、その効果は実感できましたね。当たり負けしなくなりましたから。身体が大きな外国人選手なら、なおさら体幹の強さが重要になる。ケガをしていなければ、ドイツW杯にも出場できていなかったかもしれません」

 それはロンドン五輪に対しても言えるだろう。北京五輪出場の夢を絶った左膝の大ケガが、ロンドンの躍進を導いたのである。

「これからももっともっと女子サッカーが発展していくように自分自身も成長していきたい」

 メダルは目標の"色"ではなかった。それでもロンドンの戦いにおける充足感は、川澄らしい笑顔に表れていた。

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