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【プロ野球】「おまえはもう球威がない」 星野仙一を切った55歳の新人監督 谷沢健一が回想する中日を変えた"非情の改革" (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

 ドラフト直前に監督に就任した近藤は、センターラインの強化を最優先課題に掲げ、その補強ポイントとして真っ先に捕手を挙げた。球団幹部やスカウトの同意を得て、木俣の後継者として指名するに至ったという。

 プリンスホテル監督の稲葉誠治が、近藤の母校・旧制岡崎中(現・岡崎高)の先輩だったこともあり、中尾との交渉はスムーズに進み、入団が決まった。強肩、俊足、そして俊敏な動きで「捕手の概念を変えた男」と称される中尾を、1年目から116試合に起用。一方で、木俣の先発出場は46試合にとどまった。

【選手には嫌われますよね】

 翌82年も開幕から中尾を正捕手として起用し続け、木俣の初スタメンは5月23日、宮城球場での大洋(現・DeNA)戦。その一戦が、木俣にとって大きな転機となる。

 9対6と中日がリードして迎えた9回裏。抑えの鈴木孝政は、二死から3連打を浴びて満塁のピンチを招く。初球は外角へのシュートが外れてボール。つづく2球目、木俣のサインは外角へのストレートだったが、鈴木の投じた球は内側へ甘く入り、長崎慶一に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びた。

 試合後、近藤は報道陣を前に、こう言い放った。

「打たれた孝政が一番悪いかもしれないが、キャッチャーも悪い。孝政はリリーフ失格、木俣も使わない。これからは代打としてやってもらう」

 その試合で木俣はシーズン第1号を放ち、打撃で存在感を示していた。82年は通算2000安打まで残り133本としてシーズンを迎えていたが、この試合を最後に二度とマスクをかぶることはなく、同年限りで現役を引退。プロ19年目、38歳だった。

 星野も木俣も、1974年のリーグ優勝を支えた功労者だった。なかでも星野は、近藤が築き上げた投手分業制の中心を担ったエースである。それでも近藤に温情はなかった。両者とも、わずか1球をきっかけに第一線を退くことになったと言っていい。

 一方で、先発へ転向した鈴木は9勝を挙げ、正捕手に抜擢された中尾は攻守走で躍動。いずれもリーグ優勝の原動力となり、中尾はMVPにも輝いた。近藤の厳しい実力主義が、優勝という結果につながったと言えるのだろうか。

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