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【プロ野球】「おまえはもう球威がない」 星野仙一を切った55歳の新人監督 谷沢健一が回想する中日を変えた"非情の改革" (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi

【投手分業制が生んだ快進撃】

 1年目に新人王を受賞した谷沢は、1976年と80年に首位打者を獲得し、ベストナイン5度選出、通算2062安打を記録した球団を代表する好打者である。近藤の監督就任時は、プロ11年目を迎えた33歳だった。

「近藤さんは、ウォーリー(与那嶺)が監督だった頃にヘッド兼ピッチングコーチを務めていましたからね。投手に対しては本当に厳しいという印象がありました。1974年には優勝も経験していますし、その近藤さんが監督になるのかと、どこか不思議な感じがありました。でも、ご本人には監督への思いがあったんでしょうね。チーフスコアラーの方に『オレは監督をやりたいんだ』と話していた、ということは聞いていました」

 コーチ時代の近藤を知る選手たちにすれば、純然たる新監督ではなかった。一部の記者から「監督もどき」と評されるほど、当時から意欲と存在感を示していた。そうした意欲は、近藤が投手分業制を提唱し、実行していたことと無縁ではないだろう。

 1976年オフに中日を退団した背景には、投手起用をめぐるウォーリー(与那嶺)との対立があった。しかし、そのはるか以前の1965年から、前例のない継投策を歴代監督に提言し、認められてきた。

「ちょうど81年は、その分業制がうまく機能し始めたんです。5月の初めまでは首位を走っていましたしね。最初は『なんでこんなに勝てるんだろう』という感じでしたけど、チーム全体がうまく回り始めたんですよ。ただ、結局は6月の初めに勢いが止まってしまって、終わってみればBクラスでしたけどね」

 4月は破竹の9連勝を含む15勝4敗と快進撃を演じた。分業制については、小松辰雄が4月だけで7セーブを挙げる活躍。鈴木孝政、堂上照、左腕・水谷啓昭に加え、若手の牛島和彦もリリーフとして機能した。先発は星野仙一、都裕次郎、三沢淳が中心。

 打線は谷沢、田尾安志、大島康徳が中軸を担い、下位では宇野勝が長打力を発揮して活発だった。しかし、6月以降に失速し、最終的には首位と16ゲーム差の5位でシーズンを終えた。

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