【プロ野球】「権藤、権藤、雨、権藤」が生んだ革命 日本初の投手分業制を近藤貞雄はなぜ発想したのか (4ページ目)
後年の近藤自身の発言、記述によれば、短命に終わった権藤の野球人生が、投手分業制を発想した一因だという。当時、監督の濃人に加え、ヘッドコーチの石本秀一にも投手起用の権限があったようだが、そのなかで近藤はどういう立場だったのか。また、酷使される権藤に対し、どう指導していたのか──。中日の投手コーチ時代には監督・近藤に仕えた権藤に聞く。
「私に関しては、当時、近藤さんからの指導は何もないです。何か話をされた記憶もないです。ピッチャーをどう組むか、ということに関しても、監督の濃人さんが全部決めるわけですから。近藤さんが何かを決めたことはないと思います。で、石本さんはある程度、年齢が上だったので、指導......だけど大した話はなかったですね」
投手コーチでありながら、新人投手に対する指導の言葉はなかった──。権藤の証言は衝撃的だが、61年の状況について、近藤はこう明かしている。
「このシーズン、僕は中日コーチ陣の一員だった。だが、まだ若輩だった。濃人監督、石本ヘッドコーチの権藤の使い方を、疑問の目で見ながらも、確たる理論的な裏づけもないまま、口を挟むことができなかった」
(文中敬称略)
近藤貞雄(こんどう・さだお)/1925年10月2日生まれ、愛知県出身。法政大を中退し、43年に西鉄でプロ入り。翌44年に巨人へ移籍し、46年には23勝を挙げる活躍を見せた。その後、中日でプレーし、54年に現役引退。引退後は中日、大洋(現・DeNA)、日本ハムで監督を歴任し、日本球界に先駆けて投手の役割分担を重視した起用法を導入。82年には中日をリーグ優勝に導いた。既成概念にとらわれない野球を追求した"球界屈指のアイデアマン"として知られる。99年に野球殿堂入り。2006年1月2日、死去。
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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