【プロ野球】「権藤、権藤、雨、権藤」が生んだ革命 日本初の投手分業制を近藤貞雄はなぜ発想したのか (2ページ目)
沢村栄治が現役を引退し、多くの選手が兵役に出た同年、巨人のメンバーは監督兼投手の藤本英雄を含めて16名。1リーグ6球団となり、公式戦も35試合に縮小されたなか、200勝投手の藤本、通算303勝の須田博(ヴィクトル・スタルヒン)と共に、近藤は投手陣を支える。戦火が激しくなった45年はプロ野球が休止となり、近藤も4月から愛知・豊橋の工兵隊に応召した。
プロ野球が再開した46年。巨人に復帰した近藤はチームトップの42登板で300回1/3を投げて防御率2.18。勝ち頭となる23勝を挙げ、エースの座にのしあがるかと思われた。ところが同年オフ、キャンプ地の愛媛・松山で進駐軍の車にひかれそうになる事故に遭い、右手中指の腱を切断する重傷。戦後間もない頃で十分な治療を受けられず、中指は折れ曲がったままになった。
ボールをまともに握れない状態で翌47年は0勝に終わり、巨人を解雇。それでも選手生命が断たれたわけではなく、近藤自身、したたかに次に生きる道を考えた。自著にこんな記述がある。
「先発して完投するだけが投手の仕事ではないはずだ。代打、代走という得意技でメシを食っている選手もいる。とすれば、"代投"があってもいい。あるイニングを専門に投げる。それで立派にやれるのではないか」
のちの投手分業制につながる発想が、「代投」という造語とともに芽生えていた。
【30歳の若きコーチが出会った逸材】
その後、近藤は球団内紛による選手の集団離脱に揺れる中日に拾われる。48年には、中指を使わない独特の握りによるパームボールを習得して活躍。同年に7勝、翌49年にも7勝を挙げるなど見事な復活を遂げた。この復活劇を原案に、映画『人生選手』(田中重雄監督/新東宝)が製作された。
49年12月公開の同映画は、多くの黒澤明監督作品で知られる菊島隆三が脚本を執筆。名優の小林桂樹が主演を務めたドラマだが、巨人から川上哲治、千葉茂、中日からは投手の清水秀雄、強打者の西沢道夫に加え、近藤自身も特別出演している。
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