ヤクルト黄金期を支えた名クローザー・髙津臣吾が振り返るマウンドでの思考と責任「緊張している暇なんてなかった」 (4ページ目)
07年は開幕から抑えで始動したが、負傷離脱もあって不調。39歳にして同年限りで退団し、日米通算313セーブという記録を残した。これは佐々木の日米通算381セーブに次ぐ数字だが、日本プロ野球では岩瀬仁紀(元中日)に次いで歴代2位の286セーブ。横浜(現・DeNA)監督時代、佐々木を擁して日本一になった権藤博は、高津についてこう評している。
「高津と佐々木を比べると、圧倒的に佐々木のほうが上ですけど、それでも高津はあの緩い球で、落ちる球で、よくしのぎましたね。その苦しさは今にもつながって、あのしぶとい高津監督というのができあがっていると思う」
退団後の髙津は韓国、台湾、BCリーグで現役を続行。12年限りで引退すると、14年にヤクルトに復帰して投手コーチ、二軍監督を経て20年に監督に就任。1年目は最下位に終わりながら、21年にはリーグ優勝、日本一に導き、22年はリーグ連覇を成し遂げた。「しぶとさ」は高津の野球人生そのものにも感じられるが、権藤の言葉をそのままぶつけさせてもらった。
「しぶとさというか、粘りというか。僕自身、すごく雑な性格で、ロッカーとかの整理整頓ができなかったんですけど、『ピッチングはめちゃくちゃ丁寧だ』って古田さんに言われてたんです。権藤さんの話じゃないですけど、粘り強く、しつこく、ずーっと同じところ、バッターが振るまで投げるんですよ。ボールになっても同じところ、いつか手を出すと思ってね。
ずっと逆境のなかでやってきて、少々のことではへこたれない、と自分では思っているので。監督をやらせてもらえたこともすごく幸せだったと思うし、いろんなしんどいことはあっても、この幸せに比べたら大したことではなかったですね」
(文中敬称略)
髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工業高から亜細亜大学に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、4度の最優秀救援投手に輝く。2003年には、通算260セーブ、289セーブポイントの日本記録(当時)を達成。04年、MLBシカゴ・ホワイトソックスへ移籍し、クローザーとして活躍した。その後、韓国、台湾に渡り、4カ国でプレーした初の選手となる。11年、独立リーグ・新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼任監督としてチームを日本一に導いた。同年、現役を引退。14年に古巣であるヤクルトの一軍投手コーチに就任。16年から二軍監督、20年から25年まで一軍監督を務めた
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
フォトギャラリーを見る
4 / 4


























