検索

ヤクルト黄金期を支えた名クローザー・髙津臣吾が振り返るマウンドでの思考と責任「緊張している暇なんてなかった」 (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 当時、ヤクルトはMLBのクリーブランド・インディアンズ(現・ガーディアンズ)と業務提携していた。内容は選手の育成、リハビリなどにも及び、その恩恵にあずかった髙津は、効果的に体を鍛えることで手術を回避。帰国後、投手コーチの小谷正勝から「先発やらないか?」と打診されたが、「ここまでリリーフで来たんで、引き続きリリーフやりたいです」と答えた。

「小谷さんは『じゃあ、わかった』と。ただ、ふつう聞かないですよ、選手に対して。聞く前に『今年こうするから』と伝えることはあっても。だから、その前の段階で、監督ではなくコーチが言ってきたということは、僕に選択権があるんだなと思って自分の希望を言ったんです。そこはありがたかったですね。でも、抑えではなくなっていたので、また競争して獲りにいきました」

【緩い球で渡り歩いた日米のマウンド】

 野村克也から若松勉に監督が代わった99年。髙津は開幕から抑えを務めると30セーブを挙げて復活。01年は37セーブでリーグ優勝、日本一に貢献し、03年は34セーブ。これら3シーズンすべてで最優秀救援投手賞を受賞すると、オフにFA権を行使して海を渡り、04年、ホワイトソックスに入団する。

「何度も日本一になって、クローザーとしてタイトルも獲ったし、次のステップに行ってもいいのかなと思いました。とにかく、1年目はリリーフの枠に残りたいっていう一心でしたね。そのなかで向こうではシンカーがチェンジアップと呼ばれましたけど、すごく有効なボールになった。カーブも含めて遅い球が、向こうのバッターにはタイミングを取りづらかったようで」

 野村とともにつくり上げたシンカーが生きて、途中から抑えも務めた髙津は59登板で6勝19セーブを記録。しかし2年目は序盤から打ち込まれて結果を出せず、8月にはメッツに移籍したがオフに退団。06年、古田が選手兼任監督となったヤクルトにテストを経て復帰すると、8月以降、チーム事情で再び抑えを務めることになった。

3 / 4

キーワード

このページのトップに戻る