ヤクルト黄金期を支えた名クローザー・髙津臣吾が振り返るマウンドでの思考と責任「緊張している暇なんてなかった」 (2ページ目)
「いやいや、失敗の数なら負けないと思います(笑)。僕らの年代だと佐々木さん(主浩/元横浜ほか)とか宣銅烈(元中日)が抑えでいましたけど、その人たちに比べたら、明らかに成功率が低いはずですよ。佐々木さんなんか、もう本当のクローザーでしたからね。
で、失敗した時はぜんぶ台無しにして、みんなの幸せを奪ってしまうような気がして、しんどかったです。辛かったです。でも、一番辛いのはそれを言えないこと。抑えはそんな態度を人には見せられないので......ほんと大変ですよ。自分がすべてを背負っているっていうことが、すごく頭にあったので」
【クリーブランドで掴んだ突破口】
95年も開幕から抑えを務めた髙津は28セーブを挙げ、リーグ優勝、日本一に貢献。この頃から、チームを背負って最後の3つのアウトを取りにいくという意識が高まっていた。と同時に、そこで失敗し、みんなが喜べるところをがっくりさせてしまう責任の重さを痛感するようになる。そんなしんどくて辛い心境から、いかにして切り替えていたのか。
「なかなか簡単に切り替えとか、じゃあ次に向かって、っていう感じにはならないものなんです。だから一番は、失敗した次の日に投げて成功すること。次の日といっても、その24時間はすごくしんどいですけどね。それが3、4日、間隔が空くのは好きじゃなかったです。体にはいいかもしれないですけど、精神的によくなかったわけです、僕の場合は」
翌96年も21セーブを挙げた髙津だったが、6敗を喫した。失敗が目立つようになると、97年は中継ぎから始動し、5月には先発で3試合に登板。一時は伊藤智仁が抑えに回り、同年は7セーブに終わるもチームはリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは髙津が胴上げ投手となった。だが、翌98年も不調でわずか3セーブ。右ヒジと腰の調子がよくない影響もあった。
「98年はしんどい1年間を過ごしました。何をやってもうまくいかないし、今後どうしたらいいのかってずっと考えていて......。それでも、オフにクリーブランドでトレーニングする話をいただいて。まず徹底的に体を検査して、真冬の2カ月半ぐらいリハビリキャンプをしたのがよかったですね。そのあとの野球人生に非常に大きな影響があった時期だと思います」
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