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辻発彦が振り返る西武黄金時代の広岡達朗監督の逸話 最大の褒め言葉は「誰でもひとつは取り柄があるんだな」 (2ページ目)

【広岡監督には褒められたことがない】

上重 あらためて、入団当初の西武の印象はいかがでしたか?

 すごいなと思いましたよ。入団前年の1983年はジャイアンツに勝って日本一になったチームですから、そういう強いチームに入ったんだと。ただ、(入団前から)広岡監督は「管理野球」で厳しいというのを報道とかで見ていましたし、石毛宏典さんもすごく(厳しい管理を)やられたみたいなことも耳にしていました。自分の力を出すというか、そういう(厳しい)ところに行ったほうが自分はいいんじゃないかと思って、西武に入ることになりました。本当に毎日がピリピリしていましたよ。

上重 広岡さんは内野手出身なので、特に内野手に厳しいと聞いたことがあります。

 褒め言葉の「すごい」とか「ナイスプレー」とか聞いたことがない。1年目に海外のキャンプに行って、監督がノックをしてくれるんですけど僕が下手なので、「ちょっとこっちに来い」と脇に追いやられて、「ノックするのは10年早い」くらいのことを言われました。ボールをポンと置かれて、「このボールを取ってみろ」から始まりましたね。

上重 基礎の基礎という。

 そう。それからずっとふたりで、素手でゴロを転がしたりして......。あの時間がよかったと思います。

上重 我々が見ている時の西武は、もう皆さんが洗練されていて完成されているイメージなんですが、その前から基礎をちゃんとやってきて、あの黄金時代があるということですか?

 たぶん僕が入る前は黄金時代の先駆け(82年初のリーグ優勝、初の日本一/83年連覇)だったと思うんですよ。本当によくなったのは僕が入ってしばらくして、秋山幸二とか伊東勤とか、もちろん清原和博とかもいたけど、その時はやっぱりちょっと違ったと思います。

上重 広岡さんは、小さいグローブを使って「素手で取るような感覚で」ともおっしゃっていました。

 当時はそういうグローブはなかったですね。ただ、今はみんなグローブから人差し指を出すじゃないですか。それがダメだった。監督が練習を見に回ってきたら、指を中に入れてやっていました(笑)。1年目はそういう感じで、キャンプでは、キャッチボール、ランニング、ペッパー(打撃練習)を2セットぐらいやるわけですよ。それが本当にきつかったです。

上重 ペッパーは投げて、打って、ずっと繰り返しですもんね。

 それでフラフラになっていました。

上重 バッティングでいうと、社会人時代は3番も打っていましたよね。

 3番を打ったこともありますけど、最後のほうは1番を打っていました。

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