【インタビュー】リーグ連覇からの苦悩の3年 髙津臣吾が明かす「ヤクルトで起きていたことのすべて」 (4ページ目)
── 今年9月23日の中日戦、2点ビハインドの9回表に清水昇投手をマウンドへ送り出した時、「ああ、調子を取り戻してもらいたいんだな」と感じて、あの"我慢比べ"の話を思い出しました。
髙津 あの時は、もうシーズンも終盤に来ていましたし、自分の感情も含めて、清水に投げさせました。スワローズのブルペンをずっと支えてくれた大切な存在ですからね。だからこそ、「しっかりこの姿を目に焼きつけておこう」と思って(笑)。
── この3年間は苦しい時間が続いたと思います。オンとオフの切り替えは?
髙津 ずっとオンでしたね(笑)。本来なら試合のない月曜日がゆっくりできる日なんですけど、実際はまったく休めませんでした。資料を見たり、映像を見たり。たとえ見ていなくても、頭のなかは常に動いている。そうなると、まったく眠れなかったり、食事ものどを通らなかったりで。もう職業病ですよ。でも、それが一軍監督という仕事なんでしょうし、そういうものだと思っています。
── 神宮での試合が終わって、自宅に帰られるまでの車の中はどんな時間でしたか。
髙津 昔、野村(克也)監督がミーティングの時に、「オレは運転中に信号無視をしているかもしれない」と言ったことがあったんです。僕も、まさにそういうことが何度かありました。「あれ? いま青だったっけ」「歩行者いなかったかな」「対向車いなかったかな」とか。そのくらい、常に野球のことを考えていたんです。運転時間は長くないのですが、気が休まる瞬間なんてまったくなかったですね。音楽を流しても、何を聴いているのかまったくわからない。ラジオにしても、誰がしゃべっているのか記憶にない。「あっ、これ野村さんが言っていたやつだ」って(笑)。
髙津臣吾(たかつ・しんご)/1968年11月25日生まれ。広島県出身。広島工から亜細亜大に進み、90年ドラフト3位でヤクルトに入団。魔球シンカーを武器に守護神として活躍し、最優秀救援投手に4度輝くなどヤクルト黄金期を支えた。2004年、MLBのシカゴ・ホワイトソックスに移籍し、クローザーとして活躍。その後、韓国、台湾でもプレー。11年、独立リーグの新潟アルビレックスBCと契約。12年には選手兼監督として、チームを日本一へと導く。同年、現役を引退。14年にヤクルトの一軍投手コーチに就任、17年から二軍監督を務め、20年から一軍の監督として6年間指揮を執った。21、22年とリーグ優勝を果たし、21年には日本一に輝いた
著者プロフィール
島村誠也 (しまむら・せいや)
1967年生まれ。21歳の時に『週刊プレイボーイ』編集部のフリーライター見習いに。1991年に映画『フィールド・オブ・ドリームス』の舞台となった野球場を取材。原作者W・P・キンセラ氏(故人)の言葉「野球場のホームプレートに立ってファウルラインを永遠に延長していくと、世界のほとんどが入ってしまう。そんな神話的レベルの虚構の世界を見せてくれるのが野球なんだ」は宝物となった。以降、2000年代前半まで、メジャーのスプリングトレーニング、公式戦、オールスター、ワールドシリーズを現地取材。現在は『web Sportiva』でヤクルトを中心に取材を続けている。
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