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【追悼】長嶋茂雄の大学時代を知るふたりの野球人の証言 「ミスタープロ野球」はいかにして生まれたのか? (3ページ目)

  • 元永知宏●文 text by Motonaga Tomohiro

 佐々木はすぐに長嶋の"らしさ"に驚かされることになる。

「部屋に入るなり『よろしくお願いします』と礼儀正しくあいさつしてくれました。ホテルに着いたのが夜の10時くらいだったから、『寝ようか』ということになってベッドに入ったんですよ。すると、10分もしないうちにドスンというものすごい音がした。長嶋がベッドから落ちたんですよ。驚いて『大丈夫か』と聞いたら『大丈夫です』と言うんだけど、何分もしないうちにまたドスンですよ(笑)。本当に粗忽(そこつ)な男ですよ。でも、ちっとも憎めない」

 その時の日本代表では、長嶋が三塁手で、佐々木が二塁手だった。

「ゲッツーの時、サードから送られてくる球が速くてねえ。グラブをはめた手が腫れあがるほどでした。『シゲ、いいかげんにしろ。手加減しろ』と言うんだけど、ものすごいボールを投げてくる。長嶋は力の加減ができないからしょうがない(笑)。すべてが全力投球です。それもどこに投げてくるかわからない。本当に肩が強かった。あんなすごい送球をするのは長嶋だけでしたよ」

 その時、日本代表のキャプテンを務めたのが土井だった。

「当時、フィリピンはアメリカの影響を強く受けていたから野球も強かった。社会人野球の選手が出場しても勝てないから『東京六大学でいこう』となったんだよ。オレはキャプテンを任されていたからみんなのことをよく見ていたけど、長嶋も後輩らしくテキパキ動いていたよ。もちろん、文句も言わずにね。明治の島岡の厳しさはよく知られているけど、立教の監督だった砂押邦信も島岡に負けないくらいにスパルタ指導だったらしいね。長嶋も鍛えられていたから、島岡とのコミュニケーションもまったく問題なかった」

【どれだけすごい選手になるんだろう】

 土井が大洋ホエールズに入団した1956年。大学3年になった長嶋は、春季リーグ戦で首位打者になった(打率.458)。

「長嶋は2年秋に初ホームランを打っているんだけど、下級生の頃はホームランバッターというイメージはなかった。ただ未完成だけど、『どれだけすごい選手になるんだろう』と思わせる選手だったことは間違いない。あの頃は神宮球場が今よりも広くて、ホームラン自体が少なかったから。『神宮でホームラン=すごい』という感じだったね」

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