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【追悼】長嶋茂雄の大学時代を知るふたりの野球人の証言 「ミスタープロ野球」はいかにして生まれたのか? (2ページ目)

  • 元永知宏●文 text by Motonaga Tomohiro

「我々が入学する前の東京六大学は、早稲田大学が強くて、その次が明治。そのあとに立教の時代になるんだけどね(リーグ4連覇)。オレが4年生だった時、ちょうど長嶋が2年生の秋で"ぐんと伸びてきたな"という印象があったよ」

 立教が2位となった1955年の秋季リーグ戦で、長嶋は打率.343(リーグ3位)、本塁打1本、打点12(リーグ1位)という成績を挙げ、ベストナインに選出された。

「もう、それまでとは別人のような活躍ぶりだったよね。でも、プロ野球に入ってから見せたような派手なプレーはまったくなかったよ。当時は、『東京六大学こそが日本野球の本流だ』という意識を、みんなが強く持っていて、『魅せる野球』なんて考え方はなかった。派手なプレーなんて許されない、そんな空気だったんだ。とにかく、『学生らしくあれ』と言われていた時代だったね」

 プロ野球選手を引退後『プロ野球ニュース』(フジテレビ系)のキャスターとして人気を集めた佐々木は、慶應大を代表するスター選手だった。

 佐々木が言う。

「長嶋は1年生の時からガムシャラにプレーしていました。印象としては、そのあとも変わりませんでしたね。いつも一生懸命」

 1955年秋のシーズン、大ブレークした長嶋は二塁手の佐々木とともにベストナインに選ばれている。

「大学時代の長嶋で忘れられないのは、そのシーズンのあとに日本代表として一緒に戦ったアジア選手権ですね。フィリピンのマニラで開催された大会。ベイビューというホテルの301号室に長嶋とふたりで泊まりました。2週間ほど一緒だったのかな......」

【すべてが全力投球】

 1955年秋のリーグ戦後に開催されたアジア野球選手権大会には、東京六大学の選手16人によって編成された日本代表が出場した。監督は明治大学の島岡吉郎。立教からは、2年生の杉浦と長嶋が選出されていた。

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