栗山英樹が振り返るたった一度の根本陸夫との面会 「キミをオレの下につけて、オレみたいなことをやってもらおうかなと」 (4ページ目)
実際には、さらに多種多様な話をしていったなかで、栗山には特にその「歴史」の話が印象に残っているという。
「あらためて『人に会って話を聞かないと......』と思いました。書き物では書ける範囲しか書けない、放送はもっと出せない、ってなりますよね。そういうところで本当は何が起こっていたのか、ちゃんと学びなさいと。逆に考えると、根本さんだけがわかっている本当のことがあって、それで裏仕事ができて、人を動かし、ものを動かせたのかなって、今になると思いますね」
では栗山自身、最初に根本陸夫という名前を意識し、その「裏仕事」を知るに至ったのはいつだったのか。
「本当に意識したのは、公康の時ですかね。『(社会人野球の)熊谷組に行く』と言っていた名古屋電気(現・愛工大名電)の工藤公康を西武がドラフトで指名して、結局、入団に至った。その時から現実的に『すごい人がいるんだ』と思い始めたんです。伊東勤とか秋山幸二の時はよくわからなかったんですが、この時も『何がどう動いて西武に入団したんだろう』とは思っていました」
81年、栗山が大学2年生の時のドラフト。熊谷組への入社が内定し、全12球団に"指名お断り"の通達を出していた工藤を、西武は6位で指名した。この時、監督からフロント入りしたばかりだった根本は、「裏約束は絶対にない。誠心誠意、話し合ってみる」と公言し、工藤側との交渉に入った。
この工藤の獲得は、当時の西武球団スカウト部長、浦田直治(元・西鉄)がいないとできなかった。伊東と秋山の獲得も、浦田が真っ先に動いたことで実現した。「根本の右腕」と呼ばれた浦田も、栗山にとっては注目に値する存在のようだ。
「浦田さんを動かせば動くようになっていた、ということがすごいですよね。あとは周りの人たちも、浦田さんに根本さんを見ていたんでしょうね。一緒に根本さんがいるかのように。それ、いちばん強いですよ。何倍もの仕事ができるので。あらためて憧れます。自分自身は表に出ない、前面に出ようとしないで、フィクサーとして暗躍したという生き方に。もともと憧れていて、こういう人はカッコいいなと思っていたのが根本さんでしたから」
根本は1999年、72歳で逝去したが、栗山の頭にその存在は残り続けた。日本ハム監督時代は天からの声に背中を押されるときもあり、WBC日本代表監督に就任してからは、まさに根本の「裏仕事」を実感することになるのだった。
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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