渡辺久信が感謝する広岡達朗との出会い 「厳しい監督のもとで1、2年目に真剣に野球と向き合えた」 (4ページ目)
── 西武監督の1年目、チームは5位からスタートし、巨人を4勝3敗で破って日本一に。監督6年間でBクラスは一度だけでした。どのような野球を目指していたのですか?
渡辺 就任当初は、森監督のように「1点を取って、1点を守る野球」を目指していました。でも、当時の主軸であるアレックス・カブレラや和田一浩が抜けてしまい、若手を育てざるを得なくなりました。そんななか、片岡易之、栗山巧、中島宏之、中村剛也といった選手たちが台頭してくれたんです。投手陣も、涌井秀章が10勝、岸孝之が11勝、帆足和幸が11勝、アレックス・グラマンが31セーブと、それぞれが力を発揮してくれました。
── 監督退任後はGMなど編成部で11年間。GMの難しさとは?
渡辺 選手を現場に送り出し、中長期的に現場がやりやすい環境を整えるのがGMの役割です。そのうえで、FAなどの制度も加味しながら組織づくりをしなければなりません。しかし同時に、目の前のシーズンも大事です。毎年応援してくださるファンの皆さんの期待に応えるためにも、即戦力の補強も必要になります。そこがGMの難しいところです。
── 1980年代から90年代前半の西武が強かった理由とは?
渡辺 スカウティングが非常によく、育成も機能していました。FA制度が導入される1994年までは、獲得した選手をしっかり育て、移籍も少なく、長期間にわたって安定して戦うことができました。近年は、涌井、岸をはじめ、浅村栄斗、森友哉、山川穂高といった主力がFAで退団してしまいました。
ただ、それは選手の権利ですから受け止めるしかありません。それでも西武は1982年以降、Bクラスはわずか8回だけ。43年間でこれだけ安定して強かったチームは、なかなかありません。ここ数年は苦しい時期もありましたが、また必ず強くなると信じています。ファンの皆さん、これからも応援よろしくお願いします。
渡辺久信(わたなべ・ひさのぶ)/1965年8月2日、群馬県出身。前橋工高から83年のドラフトで西武から1位指名を受け入団。2年目に8勝11セーブを挙げ、リーグ優勝に貢献。86年には最多勝、最高勝率、最多奪三振のタイトルを獲得するなど、西武黄金時代の中心投手として活躍。98年、ヤクルトへ移籍。99年から2001年は台湾・勇士隊で選手兼コーチとしてプレー。引退後は解説者を務め、04年から西武二軍コーチ、05年は二軍監督を兼任し、07年は二軍監督専任。08年に一軍監督に昇格し、就任1年目で日本一に導く。13年限りで退任し、シニアディレクターに。19年からGMとなり、昨年は5月28日から監督代行を兼任し、チームの指揮を執ったが、シーズン終了後に退団
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著者プロフィール
飯尾哲司 (いいお・てつじ)
静岡県生まれ。『週刊ベースボール』編集部出身。野村克也氏『私の教え子ベストナイン』『リーダーとして覚えておいてほしいこと』、元横浜高野球部長・小倉清一郎氏『小倉ノート』をはじめ、書籍の企画・取材・著書多数。プロ野球現場取材歴35年。早稲田大学大学院修士課程修了。学術論文「エリートアスリートはなぜセカンドキャリアで教員を選択したのか:プロ野球選手とJリーガーの事例をもとに」(スポーツ産業学研究, Vol.33, No.1, p.63-73,2023.)
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