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ヤクルト山田哲人も愛用の「ドナイヤ」がメジャーへ! 村田社長が語る「無名グラブが世界に届くまで」 (2ページ目)

  • 島村誠也●文 text by Shimamura Seiya

【きっかけはワーキングホリデー】

 人から人、また人から人へのつながり──村田のこれまで歩んできた道のりの結晶のような今回の出来事は、遡れば野球とはまったく関係のない場所からの始まりだった。

 村田は大阪産業大学(二部)を卒業すると、関電興業という関西電力の子会社に就職。

「発電所のなかで、タービンの定期点検の現場監督をしていました。作業着にヘルメット、安全靴を履いて......仕事には満足していたのですが、『このままでいいのだろうか』と。考えた結果、ワーキングホリデーを経験して、それを生かした仕事を探そうと退職を決めました」

 当時25歳、村田はオーストラリアのケアンズから入って、ダーウィンに移動。フラッと入ったクラブの雰囲気が好きになり、通うようになった。

「そのうちにそこで働きたくなって、英語はまったく話せませんでしたが、飛び込みで『アイ・ウォント・ワーク・ヒア』と、何度断られても繰り返して採用が決まったんです(笑)」

 働きながらお金を貯めて、パースへ移動。大学の英語コースに通った。

「オーストラリアで他国の人たちと働いて話をしていると、みんな『僕は帰国したらこんな仕事をするんだ』『私はこういうことをしたい』と、自分の意思で仕事を選んでいると感じたんです。それだったら僕も、本来好きな野球に携われる仕事をしようと」

 帰国してすぐに常連だったバッティングセンター兼スポーツ用品店を訪れた。

「せっかく覚えた英語を生かしたいと思う。(アメリカの老舗野球用品メーカーの)ルイスビル・スラッガーの会社の連絡先を教えてくれとお願いしたところ、バットのカタログ冊子を持ってきてくれたんです」

 村田はスラッガーと取引している会社の電話番号を見つけると、「働きたいんですけど」と、すぐに電話をかけた。

「担当の方が『職安の募集を見てきたのか?』と聞くので、『いえ、飛び込みです』と答えたら、『キミ、面白いな。職安募集での内定者も出ているけど、面接だけでも受けてみるか?』となったんです」

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