ヤクルト山田哲人も愛用の「ドナイヤ」がメジャーへ! 村田社長が語る「無名グラブが世界に届くまで」 (3ページ目)
面接に行くと、その日に「試用期間という形になるけど来ないか」と電話があった。
「ただ、帰国してすぐに就職は決まらないと思っていて、冷蔵倉庫で作業するバイトを始めていたんですよ。『バイト先にすぐ辞めるのは申し訳ないので......』と相談したら、『せっかく就職できるのに、義理堅いというか、やっぱりキミは変わってるな。だったら、きちんと辞めてから2週間後においで』と」
【池山隆寛との出会い】
タービン点検の現場監督からスタートして、飛び込みで実現させた野球に携わる仕事。とんとん拍子の展開に思えた......。
「でも、その会社はルイスビル・スラッガーのバットを扱う問屋だったんです。僕自身は、アメリカ本社と英語で輸入とかのやりとりをするイメージだったのですが、そうじゃなかった(笑)。とはいえ大学は工学部出身で、ストレートには入れない道でしたので、野球に携われるんだから、ここで頑張っていこうという思いでした」
大阪の会社からバットを車に積んで、フェリーで九州に渡る。九州を一周しながら、スポーツ店への営業の日々。そうした生活が3年目に入ったある日のこと。立ち寄った長崎の店で、ドラマチックな縁に恵まれるのだった。
「お店の方が外国人のお客さんとの会話に困っていたので、通訳みたいなことをしたんです。それが済むと、僕はそのまま佐賀のスポーツ店に行きました。するとそのあと、そのお店に某メーカー(以下A社)の方が営業に来た際、『英語ができて、開発もできる人材を探している』という話があったそうなんです。するとお店の方が『さっきこういうことがあった』と僕のことを伝えてくれたところ、A社の方が佐賀まで追いかけてきてくれたんです」
A社の人といろいろ話すなかで、「ウチに来ませんか」と誘いがあったという。
「最初はお断りしました。でも、そこに行けば英語も生かせる。大阪にいたら営業だけで終わるものが、東京へ行けば開発もできるし、プロ野球選手の担当もできる。仕事の幅も広がるということで、A社にお世話になることを決めました」
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