篠塚和典と定岡正二が振り返る高校時代と、巨人の若手時代 原辰徳は「ほかの選手とは違った」 (4ページ目)
【伊東キャンプを経て篠塚、定岡も奮起】
篠塚 みんな期待していましたよ。長嶋茂雄監督がサダさんを連れていかなかったのは、逆に強い気持ちを持たせる思惑があったんじゃないですか。
定岡 プロ入り後は二軍暮らしが続いていましたけど、キャンプはずっと一軍に呼ばれていたし、伊東キャンプにも「いの一番で呼ばれるんだろうな」と思っていたら外されて......。だけど、今シノが言ったように、逆にモチベーションを高めようとしてくれていたのかもしれませんね。実際に、伊東キャンプの翌年はプロ初勝利を含む9勝を挙げましたから。
あと、原が入団してシノが弾き出されるような形になった時は、僕らも「何で?」と思いましたよ。競争をした末に決まったわけではなかったし。でも、僕らがとやかく言える立場ではないですしね。それでも、中畑さんのケガがきっかけになって、中畑さんがファースト、原がサード、シノがセカンドと、みんながそれぞれのポジションにうまい具合に収まった(笑)。中畑さんとこの話になる時は、いつも笑い話になるけど、野球の神様が見ていたのかなと。そういうことを感じる年でした。
――V9後のチームづくりという観点でみた時、1981年は重要なシーズンでしたか?
篠塚 そうですね。伊東キャンプの時には王貞治さんがまだ選手でいましたから。でも、現役の晩年という感じでしたし、ミスターが「ここにいるメンバーが、これから10年、15年とジャイアンツを支えていくんだ」と言っていた。
V9の功績があまりにも大きいので、その時のメンバーがみんな抜けてしまったあとにどうなってしまうんだろう、僕らでやっていけるのかな、という思いはすごくありました。ですが、日本シリーズでも木田勇投手(前年に22勝8敗で史上初のMVP&新人王同時受賞の左腕)からホームランを打てましたし、1981年は自信を持てたシーズンでした。伊東キャンプに行ったメンバーのほとんどが、その頃からレギュラーとしてやっていくようになりましたね。
(中編:長嶋茂雄エピソード 「おい、定岡! 相撲をとるぞ」「シノ、腐るなよ」>>)
【プロフィール】
■定岡正二(さだおか・しょうじ)
1956年11月29日生まれ、鹿児島県出身。1974年のドラフト1位で巨人に入団。長嶋茂雄監督の指揮のもと、1980年にプロ入り初勝利を挙げた。藤田元司監督が就任して最初のシーズンとなった1981年にはプロ入り初の2ケタ勝利(11勝)。翌年にはオールスターに初出場、自己最多の15勝を挙げ、同年代の江川卓や西本聖とともに"先発3本柱"として活躍した。通算成績51勝42敗3セーブ。現役引退後は、タレントとしても活躍の場を広げた。
■篠塚和典(しのづか・かずのり)
1957年7月16日生まれ、東京都出身、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年を最後に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。
著者プロフィール
浜田哲男 (はまだ・てつお)
千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。
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