検索

篠塚和典と定岡正二が振り返る高校時代と、巨人の若手時代 原辰徳は「ほかの選手とは違った」 (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo

――この大会の銚子商は2回戦から登場しましたが、最初にPL学園に5-1で勝利したのを皮切りに、決勝の防府商戦は7-0で勝利するなど圧倒的な強さで優勝しました。

篠塚 5試合で1点しか取られませんでした。それも、押し出しの1点です。

定岡 トータルで1失点はすごいな。

――その後、定岡さんは1974年のドラフト1位、篠塚さんは1975年のドラフト1位でともに"長嶋ジャイアンツ"に入団しました。

定岡 シノが初めて合宿所に来た時、僕に挨拶しに来たんです。自分と同じドラフト1位で入った選手なので親近感がありましたし、最初に見た時は「おぉ、これがドラフト1位の篠塚か」と。寒い時期だったこともあって、シノはコートを着ていたのですが、それが一番印象的でしたね。「やっぱり東京の人間はコートを着てくるんだ。鹿児島にはコートなんかないんだけど」みたいな(笑)。

――徐々に頭角を現し、1981年には定岡さんが11勝、篠塚さんは打率.357の好成績。同年は日本シリーズで、江夏豊さんや巨人のV9を支えた高橋一三さん、トニー・ソレイタさん、島田誠さんらがいた日本ハムを破り、V9以来の日本一になりました。

篠塚 地獄の伊東キャンプ(1979年オフ)を経験したメンバーで、なんとか強いチームを作っていこうという時期でした。ただ、1981年の開幕当初は、ルーキーだった原がセカンドを守っていて、自分の出場機会は減っていました。

 それが、サードを守っていた中畑清さんが5月にケガをして、原がサードに回ってセカンドのレギュラーに復帰できたんです。結果だけ見ればよかったですが、開幕して1カ月くらいは試合に出られずにずっとチャンスをうかがっていました。

定岡 僕は伊東キャンプには(腰痛のため)参加していなくて(笑)。期待されてなかったのかな?

3 / 4

厳選ピックアップ

キーワード

このページのトップに戻る