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作新学院・江川卓の噂を聞きつけた高校球界の名将は「成東の鈴木孝政より速いのか?」と記者に尋ねた (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 ドラフト当日、全体の2番目指名で中日は果敢に鈴木を1位指名してきた。その日から中日がスカウト陣を総動員し、"鈴木詣"が始まった。そして最後は、トレンチコートを着た当時のヘッドコーチである近藤貞雄が使者としてやって来た。

「まぁ近藤さんの口説きが、うまいのなんのって。それまで反対していた親父は、近藤さんの口車に乗せられてOKしたんだから。『中日にお世話になります』って親父が言い出して、隣にいたオレは『親父が行くんじゃなくて、オレが行くんだからよ』って思ったよ(笑)。そこから近所連中を呼んで宴会が始まってね。面白かったよ」

 頑固一徹の鈴木の父・武男は苦労人だった。11歳の時に父が亡くなり、4人兄弟のうち武男を含む3人が奉公に出され、幼き頃より社会の厳しさを身にしみて経験している。武男は、4年間あれば立派に社会勉強できるという考えだったため、大学進学さえも反対だった。こんなエピソードがある。

 鈴木のプロ1年目のゴールデンウィーク前、鳴り物入りで入団したといってもまだ18歳。見知らぬ土地での生活、ドラフト1位というプレッシャーは相当なものだった。当時のナゴヤ球場は、レフト側の先には通過する新幹線が見え、鈴木は球場で練習するたびに新幹線が視界に入っていた。

 そしてある日、何を思い立ったのか、鈴木は練習が終わると名古屋駅に行き、新幹線に乗って千葉の実家に帰ってしまったのだ。

「久しぶりに会ったのに親父は仏頂面で『相手の敷居が高くなるから、明日の朝イチで帰れ』と。末っ子のオレが帰ってきても、うれしそうな顔などまったく見せなかった」

 ホームシックになって帰ってきた鈴木を、本当は温かく出迎えたかったはずなのに、武男は心を鬼にして突き放したのだ。鈴木は一泊だけして、翌日朝イチの新幹線に乗って名古屋へ戻った。車窓から流れる景色を眺めながら、鈴木は自分のあり方について考えた。ここから鈴木は、怒涛の成長曲線を描いていくのだった。

(文中敬称略)

つづく>>


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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