星野仙一から「おまえ、抑えをやれ」 与田剛はプロ1年目に突然のクローザー転向を言い渡された (4ページ目)
「闘将の星野さんが醸し出す雰囲気に厳しさはありましたけど、すべてのプロ野球選手が僕にとっては憧れですから、一つひとつがすごく新鮮でした。ただ、憧れの世界で今度は生き抜いていかなきゃいけない。長年の夢が現実になると怖さもあって、キャンプでは怖気づくような毎日で。しかも途中で肉離れのケガをして、これでもう終わったのかなと落ち込みました」
足を痛めたものの、下半身を含むトレーニングを続けて3月半ばに復帰し、同18日、東京ドームでの日本ハムとのオープン戦で初登板。故障明けながら151キロをマークし、球界全体を揺るがすほど大きな話題となった。プロでの評価も一気に高まり、あきらめかけていた開幕ローテーション入りも見えてきた。そんな時に与田は監督室に呼ばれ、星野から直々に告げられた。
「おまえ、抑えをやれ」
「えっ??」と声を上げるしかなかった。抑えにも驚いた与田だったが、キャンプ中から「先発で開幕一軍」と言われてきて、ずっと先発として調整してきたから二重の驚きだった。前年まで抑えを務めてきた郭源治が左脇腹を痛め、急遽、新人の与田に白羽の矢が立った。チーム事情を説明すると、星野はさらに言った。
「セ・リーグの初代セーブ王、誰か知っとるか?」
「えっ?」
「ワシや」
(文中敬称略)
与田剛(よだ・つよし)/1965年12月4日、千葉県君津市出身。木更津総合高から亜細亜大、NTT東京を経て、89年のドラフトで中日から1位指名を受け入団。1年目から150キロを超える剛速球を武器に31セーブを挙げ、新人王と最優秀救援投手賞に輝く。96年6月にトレードでロッテに移籍し、直後にメジャーリーグ2Aのメンフィスチックスに野球留学。97年オフにロッテを自由契約となり、日本ハムにテスト入団。99年10月、1620日ぶりに一軍のマウンドに立ったが、オフに自由契約。2000年、野村克也監督のもと阪神にテスト入団するも、同年秋に現役を引退。引退後は解説者として活躍する傍ら、09年、13年はWBC日本代表コーチを務めた。16年に楽天の一軍投手コーチに就任し、19年から3年間、中日の監督を務めた
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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