星野仙一から「おまえ、抑えをやれ」 与田剛はプロ1年目に突然のクローザー転向を言い渡された (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 制球力を高め、投球術でバッターを打ち取る──。本当に追い求めるべきはそっちだ、と気がつき始めたのは大学3年生になる頃だったが、右手人差し指と中指の血行障害で手術。長期入院を余儀なくされた。それでも入院によって、さまざまな本を読む時間ができて"野球脳"が回転し始める。皮肉にも、書物から知識を得た結果、ケガの原因に自ら思い当たることもあった。

「あの当時、速い球を投げようとして、1日に800球から1000球の球数を投げていました。半ば強制的ではありましたけど、同じ球数を投げるのでも、もっとコントロールを目指す練習をしておけば、たぶんこんなケガはしなかったんじゃないかと。やっとそんなふうに考えられたんです。ただ、そこに至るまで時間がかかり過ぎましたね」

【社会人に進み才能が開花】

 リーグ戦での登板機会はほとんどなく、1勝を挙げただけで大学野球が終わった。千葉の大手企業から誘いを受けたが、同社の野球チームは軟式だった。大学1年時に父親が他界しており、母親の面倒を見るべく一時は入社を決意する。だが、「何のために手術したんだ」という思いが残っていて断りを入れた。そのうえで大学に戻り、野球部総監督と監督との"就活面接"に臨んだ。

「お断りしたことを話して、『どうするんだ』と言われて、『何とか、します』って答えたんです。具体策ゼロで社会人もない、プロも当然ないのに、強がって。若さゆえの、怖いもの知らずなんでしょうね。そのあと、NTT東京(現・NTT東日本)のほうからお話をいただいたんですけど、100パーセントあり得ない流れなんです。周りの皆さんが助けてくれたんだと思います」

 社会人の企業から誘われる選手は、早ければ大学2年時から目をつけられている。ゆえに「あり得ない流れ」なのだが、与田が2年生の時、社会人相手に完封した試合を、当時NTT東京監督の森二郎が見ていた。入社後に与田は森から明かされたが、そこから下降線となった選手を普通は採用しない。与田のポテンシャルを見込んだ大学と企業、双方の関係者に助けられた形だった。

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