星野仙一から「おまえ、抑えをやれ」 与田剛はプロ1年目に突然のクローザー転向を言い渡された (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 ときに、88年。バブル景気で企業に余裕があった時代、野球部への追加採用も認められたのかも──。そう振り返る与田だが、入社後、徐々に試合で結果を出していくと、2年目の89年5月にしっかりと開花する。前年のソウル五輪に出場した新日鐵堺の野茂英雄(元近鉄ほか)、松下電器(現・パナソニック)の潮崎哲也(元西武)らとともに、全日本メンバーに選ばれたのだ。

「社会人ではとにかく"野球脳"を鍛えなきゃという思いがあって、とくに映像を使って研究しました。それまで感覚だけでやろうとしていたのを、二画面を見比べる動作解析で自分のフォームを確認したり、チームのエースのピッチングを撮ってもらって見たり。自分と何が違うんだろうとか、そんなふうに考え始めたことが実を結んで、全日本に選ばれたのかなと。

 ブルペンでは何といっても野茂、潮崎がすごかった。横で投げていて、シューッとか、ザクッとか、ブオッとか、音で驚かされるなんてまずないんですよ。あとは古田(敦也/トヨタ自動車/元ヤクルト)と組んで、キャッチングひとつで野球観はこんなに変わるんだなと。今まで経験したこともない野球の楽しみ方みたいなものを知って、ますます勉強する気持ちにもなりましたね」

 日本・キューバ選手権大会、インターコンチネンタルカップ大会で活躍した与田は、次第に<野茂、潮崎に負けない逸材>と評されるようになる。初めて出場した都市対抗では初戦の三菱重工広島戦、佐々岡真司(NTT中国から補強/元広島)と投げ合って惜敗するも、4安打2失点で完投。150キロ近い速球とスライダーが光る与田自身の評価は高まった。

【単独1位指名で中日に入団】

 そうして迎えた89年のドラフト。野茂が史上最多の8球団に1位指名されたなか、与田は単独で中日に1位指名された。与田自身、球団が野茂に行かずに1位で指名したことを光栄に感じつつ入団。星野仙一が監督を務めるチームの雰囲気はどうだったのか。

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