角盈男は長嶋茂雄監督から託された「抑え」をまっとうし、タイトル獲得&4年ぶりリーグ制覇に貢献した (4ページ目)
【1イニングだったら毎試合投げられる】
翌82年はチームの完投数が55に増えて抑えの出番が減ったなか、角は40試合に登板して2勝9セーブ。投球回数は63回と、2イニングが当たり前ではなくなっていた。
「9回、1イニングの時はスキップしてマウンドに行きたかったですよ。めっちゃラクですから。テンション高く『ダーン!』と行って、『ポーン!』で終わりですから。ただ、回またぎだと、ピンチで出ていって抑えて、ベンチに帰るとホッとする。そこからまたテンション上げなきゃいけない。精神的な疲労度も、肉体的な疲労度も全然違います」
抑えも中継ぎも1イニングの現在、回またぎは滅多になくなった。ゆえに稀にあると投手の負担を心配する声も上がるが、80年代までは誰も気にしなかった。とはいえ、当時もリリーフの回またぎは負担だったのだ。
「ある時、藤田監督に『責任イニング』を聞かれて、『1イニングだったら毎試合投げられます。2イニング投げたら1日休ませてください。3イニング投げたら2日休ませてください。それだったらベストコンディションで責任持てます』と答えました。それは自分の自慢なんですけど、次の年にヒジを壊しちゃって」
83年は18セーブを挙げて優勝に貢献した角だが、左ヒジ故障の影響で西武との日本シリーズでは活躍できず。王貞治が監督に就任した84年は投球回数が減り、85年は先発の斎藤雅樹が抑えを兼任して12勝7セーブ。実質、抑え不在となった86年は新助っ人のルイス・サンチェが務め、角は鹿取義隆とともにセットアッパーを務めることになる。
「自分が抑えじゃなくなってどうのこうの、というのは全然なかった。もうそこまでの力がないのはわかっていましたから。逆に言うと、第一線で長生きできるのはすごくありがたかった」
89年途中に移籍した日本ハムではおもに先発を務め、最晩年、ヤクルトに移った92年は再びリリーフ。通算15年の投手人生で99セーブを挙げ、巨人時代の93セーブはクルーンと並んで今も球団記録だ。が、クルーンは1回限定の起用ゆえに在籍3年間の投球回数は161回2/3。角は12年間で691回であった。
(文中敬称略)
角盈男(すみ・みつお)/1956年6月26日、鳥取県出身。米子工業高から三菱重工三原を経て1976年のドラフトで巨人から3位指名を受けるも保留し、ドラフト期限前に入団。プロ1年目の78年、5勝7セーブで新人王を獲得。制球力に課題があるため、79年の秋季キャンプでサイドースローに転向。81年には20セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得し、チームの日本一にも大きく貢献した。89年に日本ハムヘ移籍。92年にヤクルトに移籍するも同年に現役を引退。その後はヤクルト、巨人でコーチを歴任。現在はスナックを経営する傍ら、タレント活動や野球評論家としても活動中
著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など
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