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角盈男は長嶋茂雄監督から託された「抑え」をまっとうし、タイトル獲得&4年ぶりリーグ制覇に貢献した (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

「80年はいつ出番があるか、見当がつかなかった。それが81年は、基本的に5回までは裏でマッサージしながらゆっくりして。6回から試合状況を見ながらブルペンに入って、8回、9回に合わせる。でも、ブルペンではキャッチボールしかしないです。出番になって、最後の1球だけキャッチャーに座ってもらって全力投球。それで当時はマウンドで8球投げられましたから。

 8球のうち、6球を7〜8割の力で投げる。足場が悪いんで、ならすために投げるわけです。で、7球目は全力で真っすぐを投げて、8球目は山なりにほうる。ボールが返ってきて、ロージンバッグをプレートの横に丁寧に置いて、ポンと触ってスイッチオン。あとは勝負するだけ。これが僕のルーティーンでしたけど、ロージンを丁寧に置くのは江夏さんのモノマネなんです」

 高校時代から憧れていた江夏豊。同じ左投げの抑えで、81年は日本ハムの優勝に貢献して最優秀救援投手賞を獲得。日本シリーズで対戦となったが、角は第1戦の9回にサヨナラ打を浴びた。短期決戦では初登板で失敗したリリーフは使いづらく、実際に藤田は勝ちゲームで起用しなくなった。角自身、日本シリーズはともかく、公式戦で失敗したあとはどう切り替えていたのか。

「切り替えの方法はないです。失敗して一番嫌だったのが、翌日の試合前の練習。とくにビジターだとスタンドにお客さんが入っている時間帯で、相手のファンが『おお、角、昨日はありがとうなぁ〜』って言ってくるわけですよ。新聞記者なんかも、前日の試合の話をしているんですよ。その雰囲気がいっちばん嫌で。ただ、練習が終わったらラクでした。もうゲームに入っちゃうので。

 だから失敗して、すぐゲームで使われたらうれしいんですよ。逆に、たとえばサヨナラ食らって3試合、4試合、5試合と投げないと、周りの記憶は徐々に薄れても、本人は引きずったまんま。その状態でポンとマウンドに上がると、すごいプレッシャーがかかる。ということは、次の試合で抑えて初めて切り替えられる、という感じでしょうか。その繰り返しですね」

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