角盈男は長嶋茂雄監督から託された「抑え」をまっとうし、タイトル獲得&4年ぶりリーグ制覇に貢献した (2ページ目)
「その80年は3位になったんです。広島市民球場での最終戦、江川(卓)さんが先発して7回まで投げて、僕は8回、9回と抑えて5対3で勝った。で、監督にウイニングボールを渡した時に、『おい角、来年、抑えで頼むな』って言われて、その夜に"長嶋解任"のドタバタが起きるわけです。だから監督が来年もやる気だったのは、僕が一番よく知っている」
80年10月20日、最終戦を終えた夜。長嶋の監督解任が決まった。オーナーの正力亨が留任の条件として「Aクラスと勝率5割」を掲げたなか、61勝60敗9分で3位となるも、常勝を義務づけられた球団。3年間、優勝を逃した影響で読売新聞、報知新聞の販売部数が激減し、日本テレビも巨人戦の視聴率が落ち込んでいたために事態が急転した。
明けて21日の早朝、担当記者の電話取材に応じた長嶋は「いま辞めるのは残念、無念だ」と語ったという。そのうえで同日の退団会見では自ら「辞任」と主張したのだが、長嶋の頭のなかには「抑え」があった。巨人では65年に宮田征典が出現して以降、セーブ制度導入後も専任の抑えはいなかっただけに、まさに時代の変わり目と言えそうだ。
「監督に構想があったんでしょうね。実際、お互いに引退して食事してる時に『伊東キャンプの目標は1番バッター、4番バッター、抑えだった』って言ってました。1番は松本(匡史)さん、4番は中畑(清)さん、抑えは角だと。これ、後づけかもしれませんが(笑)。まあ、角は馬力があるから先発よりリリーフ向きだろうという評価が、首脳陣の間にあったんだろうと思います」
【4年ぶりのリーグ優勝に貢献】
81年、新監督の藤田元司は長嶋の構想を継承。角を抑えで起用し、先発陣は江川、西本聖を中心に定岡正二、加藤初も機能。結果、この4投手だけで合計45完投とリリーフ頼みではなかったが、角は51試合の登板で8勝20セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得。104回1/3を投げて防御率1.47と投球内容もよく、4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
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