「明日から江川卓のケツに回れ」と長嶋茂雄に言われた新浦壽夫は「オレ、エースじゃないのか?」と憤慨した (3ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

【世代交代の波にのまれていく】

 しかし翌年の1980年、年明けから新浦はヒジに違和感を覚え、やがて痛みへと変わっていった。

「やはり4年間の疲れですね。ヒジがパンクした。休めばすぐ治せるはずだったのが、エースという看板をつくり上げた以上、なんとか自分で立ち直らなきゃいけないという気持ちが強くて、傷口がどんどん広がっていった。春先に『ヒジが痛いです』って言うと、『無理しなくていい。二軍に行ってもいいんだから』って返ってきたから、『いや、もう少し頑張ってみます』と。結局、7月まではダメだったね」

 勤続疲労によるヒジ痛。この4年間、先発とリリーフのフル回転で投げていた。78年には63試合の登板で先発9のうち完投5、15勝7敗15セーブで投球回数は189イニングに達した。つまり、リリーフで回またぎの2イニング、3イニングは当たり前に投げていたということになる。それが4年間、このような起用法で投げていればヒジに支障が出てもおかしくない。

「79年オフに伊東キャンプがあったんですが、長嶋さんから『おまえは疲れているから休め』と言われて、若手だけのキャンプになった。たしか、西本、定岡(正二)、鹿取、角(盈男)が同級生で、そのひとつ上が江川かな。そこに中畑清が入り、篠塚利夫(=和典)、松本匡史が入ってくる。若手だけの仲良しグループができたんです。それで81年に原辰徳が入ってきて、V9 戦士がほとんどいなくなりました」

 1980年、巨人は61勝60敗9分の3位に終わり、長嶋が事実上の監督解任。そして王貞治も現役引退。伊東キャンプで鍛えた若い選手たちが主力へと育っていき、「ヤングジャイアンツ」と呼ばれていく時期だ。

 1981年から藤田元司が監督に就任し、新浦の出番はさらに減っていく。

「森(祇晶)さんや吉田(考司)さんが正捕手の時に『フォークかスライダーを放りたいんですが』と言っても『そんなの放らなくていい。捕るのが面倒くさい』と返される。裏を返せば、球種を増やすよりもストレートとカーブの精度を上げろっていうことだったかもしれないけど、きちんと放っていたらピッチングの幅もすごく変わったなと思います。

 それをできたのが江川ですよ。『こういったものを放りたい』『こういった球でいく』と同級生の山倉(和博)だと何でも言えるわけだから。山倉ともバッテリーを組みましたが、首脳陣からしたら勝ちにつないでもなんとも感じてなかったんじゃないでしょうか。江川と山倉で抑えてくれたほうがいいなっていう感覚ですから」

 2年目に江川が16勝で最多勝のタイトルを獲り、江川を中心とした世代が巨人の中軸となっていき、ひとつ上の世代の新浦たちは自然と中心から追いやられていった。

(文中敬称略)


江川卓(えがわ・すぐる)/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している

著者プロフィール

  • 松永多佳倫

    松永多佳倫 (まつなが・たかりん)

    1968 年生まれ、岐阜県大垣市出身。出版社勤務を経て 2009 年 8 月より沖縄在住。著書に『沖縄を変えた男 栽弘義−高校野球に捧げた生涯』(集英社文庫)をはじめ、『確執と信念』(扶桑社)、『善と悪 江夏豊のラストメッセージ』(ダ・ヴィンチBOOKS)など著作多数。

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