「明日から江川卓のケツに回れ」と長嶋茂雄に言われた新浦壽夫は「オレ、エースじゃないのか?」と憤慨した (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 鼻血を出した江川は、長嶋監督、トレーナーがマウンドに駆け寄るが大事をとって降板。鹿取義隆がつなぎとして上がるも、衣笠祥雄にフォアボールを出してしまい一死一、二塁。ここで、すでに9勝を挙げているエースの新浦がリリーフで出た。

 後続をピシャリと抑え、そのまま9回も投げた。完全に江川にプロ初勝利を挙げさせるための継投だった。

 新浦にとって、この継投は事前に言われていたこともあって、何も言わずブルペンに行き、急ピッチで肩をつくってリリーフ。その2日後には横浜スタジアムでの大洋(現・DeNA)戦に先発している。

 この1979年シーズン、6月に江川が一軍合流してからチームは6連敗を喫し、どことなくチームバランスが崩れていった。スポーツは技術もさることながら、メンタルの要素が大きい。プロフェッショナルのアスリートは、どんな状況下においても全力でプレーすることを心がけている。

 でも、プロとはいえ所詮人間である。江川が入ることで、不協和音とは認めたくないが、どこか集中しきれていない選手がいたのも事実だ。それでも新浦はある意味、江川の意思の強さを認めていた。

「空白の一日事件により巨人がドラフトをボイコットし、ペナルティとして江川はキャンプ参加できずに、栃木で巨人OBのキャッチャーの矢沢(正)さんとふたりきりでトレーニングをし、世間からの言葉に耐えてきたわけですから。彼の巨人に対する思いの強さ、野球に対する強さというものは相当なものがあったということでしょうね」

 結局、新浦は江川の一軍合流後にリリーフも兼任したため、20勝に届かなかった。それでも15勝11敗5セーブ、防御率3.43。そしてリーグ最多の223奪三振、投球回236.1イニングはともにキャリアハイとなった。

 これで4年連続2ケタ勝利を挙げ、エースの称号はしばらく不動だと思われた。オフにはある雑誌の企画で、来季の三本柱を銘打って新浦、江川、西本聖の座談会が行なわれ、「3人で50勝を挙げる」という怪気炎とは思えない決意を示した。

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