高山郁夫が明かす「二軍ではいいのに、一軍に呼ばれない投手の特徴」とは? (3ページ目)

  • 菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro

── 若い時期に剛速球で活躍した投手でも、次第に球威が落ちてくると丁寧に変化球を使う投手へとモデルチェンジする例も多いですよね。

高山 スタイルや思考を変えられる選手こそ、この世界で長く戦えると感じます。王監督は常におっしゃっていました。「変わることを怖がるな」と。今年は今年、来年は来年、常に新しい自分をつくっていく。進化し続けるために、その時その時で最適な技術を身につけていくことが大事だと。そういったことは私も王監督から学びました。

── 当時はソフトバンクの三軍制(2011年創設/2023年に四軍創設)はありませんでしたが、二軍ではどんな方針があったのでしょうか。

高山 短期間だけ活躍するのではなく、骨太な選手をつくること。そのために体力をつけ、土台をしっかりとつくることに主眼を置いていました。とにかく「強い選手」を求めていました。だから選手にとっては、トレーニングもしんどかったと思いますよ。

── 当時のソフトバンク一軍投手陣の顔ぶれを見てみると、斉藤和巳投手が18勝を挙げるなど大エースとして君臨していましたね。

高山 和巳は私の現役最終年に入団してきたのですが、「あんなにひょろひょろの体だった高校生が、ここまでの大エースになるなんて......」と驚かされました。和巳のすばらしいところは、自分のことよりもチームのことをしっかりと考えられること。普通なら、選手は自分のことで手いっぱいになってしまいますから。だからこそ、無理もしてしまったんじゃないかな......と。

── 斉藤投手は翌2007年から右肩痛との長い戦いを続けた末に、2013年に惜しまれつつ現役引退しています。

高山 2006年も万全ではなかったのでは......と想像します。本当によく頑張ってくれましたし、ホークスの新たなページを開いた偉大な投手でした。今は四軍監督としてチームに尽くしていますが、次なる斉藤和巳を育ててもらいたいですね。

つづく


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した

プロフィール

  • 菊地高弘

    菊地高弘 (きくち・たかひろ)

    1982年生まれ。野球専門誌『野球小僧』『野球太郎』の編集者を経て、2015年に独立。プレーヤーの目線に立った切り口に定評があり、「菊地選手」名義で上梓した『野球部あるある』(集英社/全3巻)はシリーズ累計13万部のヒット作になった。その他の著書に『オレたちは「ガイジン部隊」なんかじゃない! 野球留学生ものがたり』(インプレス)『巨人ファンはどこへ行ったのか?』(イースト・プレス)『下剋上球児 三重県立白山高校、甲子園までのミラクル』(カンゼン)など多数。

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