早稲田大を蹴ってドラフト6位で大洋入り 屋鋪要が明かす「スーパーカートリオ」命名秘話「長嶋さんが......」 (2ページ目)

  • 水道博●文 text by Suido Hiroshi

── プロ6年目の83年に初の規定打席到達。翌年は、初の打率3割とゴールデングラブ賞を獲得。そして85年は打率.304、15本塁打、78打点、58盗塁と順風満帆でした。

屋鋪 85年は、キャリアハイと言えたシーズンでした。とはいえ、プロの変化球に対応するのはなかなか大変でした。85年は、盗塁王の高橋慶彦さんが78個で、2位の私が58個。勝利打点もランディ・バース(阪神)が22個で、私は15個で2位。自分で言うのもなんですが、勝負強かったんです。外野手のベストナインは真弓明信さん(阪神)、杉浦享さん(ヤクルト)、山﨑隆造さん(広島)の3人でしたが、自分も惜しいところでした。

【スーパーカートリオ誕生】

── 85年は1番に高木豊さん、2番に加藤博一さん、3番に屋鋪さんの「スーパーカートリオ」が一世を風靡しました。

屋鋪 当時、評論家だった長嶋茂雄さんがこの3人を「スポーツカートリオ」と表現したのをヒントに、近藤貞雄監督が「いま流行りのスーパーカー」にしようと言って、名づけられたと聞いています。今となっては、あの呼び名はありがたいですね。「スーパーカートリオの屋鋪さんですよね」と、いまだに思い出してもらえますから(笑)。

── 当時を振り返っていかがですか?

屋鋪 3人合計で、シーズン148盗塁(85年)はなかなかできないことだと思います。私は3番打者だったので、ふたりのうちどちらかが前の塁にいると走れない。それに4番がレオン・リーで、彼も積極的に打ってくる。スタートを切ってもファウルというのが、何度もありました。

── 屋鋪さんは86年から3年連続盗塁王のタイトルを獲得します。当時のセ・リーグは、チームメイトの高木さんをはじめ、松本匡史さん、高橋慶彦さんなどライバルが多くいました。松本さんは「屋鋪くんが一番速かった」と証言しています。

屋鋪 プロの世界、ライバル意識がなかったらやっていけません。ただ、現在は松本さんが監督を務めている玉川大学野球部から、私が監督を務めている社会人軟式野球チームに選手が入ってきますし、慶彦さんとは野球教室でよくご一緒させていただいています。かつての「盗塁王のライバル」が結んだ縁......不思議なものですよね。

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