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1年夏で「高校野球は終わった」と悟った江川卓の控え投手は、公式戦わずか16イニングの登板で大洋から2位指名を受けた (2ページ目)

  • 松永多佳倫●文 text by Matsunaga Takarin

 その後も小山中は、江川が圧倒的なピッチングを披露して優勝。輝かしい成績をあげた江川に、栃木県内だけでなく県外の野球名門校からも勧誘の手が伸びた。

 その力を肌で感じた大橋は「ヤツと一緒だとエースになれない」と、進学については江川と違う高校に行くことが最重要だった。大橋でなくても、ピッチャーをやっていた栃木県下の中学生はみんな同じ思いだったはずだ。

 そんな折、「江川は小山高に行く」という情報が入ったため、大橋は「作新へ行け!」という父親のひと言で進学を決めた。大橋は高校で再び江川と対戦することを夢見て作新に進んだが、入学式の日にその夢はもろくも崩れ去ってしまった。

「小学校からずっと野球をやってきて『コイツより下』と思ったことなんて一度もなかった。でも江川を見た時、『うゎー』と思ったのが正直な気持ちですね。初めて自分より上の者がいると認めた瞬間でもありました。だから江川を入学式で見つけた時、『これはまずい。大変だ』と思いましたね」

 結局、1年夏から江川が不動のエースとなり、それ以降は競い合う場さえ与えられなかった。それでも大橋は試合で投げたい一心で、ブルペンで毎日300球以上投げていた。

 そんな大橋でも、唯一投げたくない試合があった。

「小山高との試合は嫌でしたね。作新には、小山市出身者が私や江川を含めて6人いたんです。高校3年夏の準決勝で対戦した時なんか、『おい大橋、小山に帰ってこいよ!』って応援団から言われたりして......とにかく投げたくなかったですね。その試合は9回の1イニングだけ投げたんですけど、『なんでオレが投げなきゃいけないんだ。最後まで江川でいってくれよ』と思いました。江川は引っ越してきたから、まだ馴染みが薄いですけど、私の家は小山市の真ん中で畳屋の看板を出していましたから。小山の応援団はほとんど知り合いで嫌でしたね」

【憧れの甲子園のマウンドへ】

 大橋にとって、高校3年間のなかで最も印象深い試合が、1973年春のセンバツ2回戦の小倉南(福岡)戦である。

 初戦で、出場校中ナンバーワンのチーム打率を誇る北陽(大阪)から19奪三振という衝撃デビューを飾った江川の名は、一躍全国区となった。

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