元千葉ロッテ・大嶺祐太が歩むセカンドキャリア「野球界に残らなかったことが『正解だった』と思えるように」 (2ページ目)

  • 元永知宏●取材・文 text by Motonaga Tomohiro
  • 長谷部英明●撮影 photo by Hasebe Hideaki

【このままではプロでやっていけない】

 今では150キロを超える投手は珍しくないが、2000年代後半にはまだ貴重な存在だった。ボールの速さなら負けない――そんな自信はすぐに打ち砕かれた。2007年4月30日のライオンズ戦のことだ。

「二軍で投げている時には『自分のまっすぐはプロでも通用する!』と思っていました。でも、一軍初先発のマウンドで(アレックス・)カブレラ(元西武ライオンズなど)にホームランを打たれたんですよ。二軍なら打ち取れたはずのボールが右中間スタンドに入るのを見て、プロの怖さを感じました。『コントロールを磨いて、変化球を身につけないとプロではやっていけないぞ』と痛感しました」

 プロ2年目の2008年にプロ初勝利。2009年に5勝したものの、2010年は3勝に終わっている。大器が未完のままだったのには理由がある。

「20代の前半はひじ、そのあとに肩も痛くなって......」

 大嶺にとって、プロ野球選手としての16年は痛みとの戦いでもあった。

「プロに入った時は大丈夫だったんです。でも、自分には1年間ずっと野球をするという経験がなかったので、2月のキャンプ前の自主トレから投げ始めて、いつも夏以降には痛みを感じていました。疲れがたまると、ひじが痛くなる」

 プロ野球の各チームは、1年間で143試合を戦う。ローテーション投手ならば20試合以上は先発マウンドに上がることが求められる。だが、大嶺がその責任をまっとうできたのは2015年だけ。この年は23試合に先発して8勝7敗、防御率3・17、投球回数は133回3分の1。これが大嶺にとってのキャリアハイだった。

2015年には8勝をあげ、今後の飛躍が期待された photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

 大嶺にとっての転機は2018年。春季キャンプ中に右ひじの腱が切れる音がしたため、登板を回避。そのシーズンは一軍で一度も投げることができなかった。

「すぐに病院で検査してもらったのですが、手術の必要はないと言われました。その後もずっと痛みがあって、満足に投げることができず......シーズンオフにまた検査してもらった時に『これはダメだ、手術しないと』と言われました。『この1年間はなんだったんだ......早く手術をしておけば......』という後悔はあります」

 2019年1月にトミー・ジョン(側副靭帯再建)手術を受けて、全治12カ月と診断された。当然、この間は全力で投げることはできない。

「ユニフォームを脱いでからプロ野球人生を振り返った時、頭に浮かぶのは手術のこと、その後のリハビリですね。球団には十分な時間を与えてもらいましたし、自分にとっては本当に意味のある1年間だったと思います」

 育成契約を結んでリハビリに励んだ大嶺は2020年8月に支配下登録され、すぐに一軍登板を果たした。翌2021年は8試合に登板し、1勝1敗、防御率4・09。しかし、シーズンオフに戦力外通告を受けた。

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