大洋ホエールズの優良助っ人、カルロス・ポンセが語る来日秘話 「バンクーバーか、日本か、二者択一を迫られたんだ」 (3ページ目)
「3Aで打率.320を残したんだ。そのうちマイナーの監督に呼び出されて、メジャー昇格を告げられたんだ。故郷から母親を呼んでね。デビューはホームのカウンティ・スタジアム。昇格してから3日ほど待たされたんだ」
ポンセのデビュー戦は、8月14日のタイガース戦。9回一死から代打として登場するも、同じプエルトリコ出身の抑え投手、ウィリー・ヘルナンデスの前に凡退し、セーブを献上している。それでも翌日のホワイトソックス戦はDHとして初スタメンを果たした。その後もポジションは変わりながらも、スタメンに名を連ねた。そして8月17日、ファーストで起用されるとメジャー初安打を含むマルチヒットを放ち、さらにその翌日にはメジャー初打点もマーク。次第にメジャーの水に慣れていった。
しかし、当時のブルワーズには役者が揃っていた。ファーストにはのちにメジャー通算2000安打を達成するセシル・クーパー、外野にも通算3142安打のロビン・ヨーント、80年のホームラン王のベン・オグリビー(のちに近鉄でプレー)、DHにもこれまたメジャーで2000安打を達成するテッド・シモンズと、ポンセがラインナップに入り込む余地はなかった。
【日本球界を席巻したローポン・コンビ】
翌86年、スプリングトレーニングを前に厳しい現実を突きつけられる。
「球団からバンクーバー(3A)に行くか、日本に行くか、二者択一を迫られたんだ。でも、即決したよ。日本に決まっているだろう。ブルワーズが提示したルーキーの6万8000ドル(当時のレートで約1150万円)より、大洋のほうが4000ドルほどよかったからね。しかも2年契約。その2年ほど前から、日本人のおじさんがキャンプのたびに僕のところに来て、『一緒に写真を撮ってくれ』と。それが大洋のスカウトの牛込(惟浩)さんだったんだ。
当時、大洋はブルワーズと提携していたんだ。それで彼は、僕とダグ・ローマンに目をつけていたようなんだ。だから日本で2年プレーして、ブルワーズに戻るつもりで契約したんだ。2年もすればポジションに空きが出るかもしれないからね。たぶんローマンもそのつもりだったんじゃないかな。ローマンは物静かなヤツでね。敬虔なキリスト教徒で、神父だったか牧師だったかになるために野球から離れたんじゃなかったかな。今はもう連絡をとってないけど、どこかの教会にいると思うよ」
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