大洋ホエールズの優良助っ人、カルロス・ポンセが語る来日秘話 「バンクーバーか、日本か、二者択一を迫られたんだ」 (2ページ目)

  • 阿佐智●文 text by Asa Satoshi

 プエルトリコのナショナルチームのメンバーにも選ばれ、セントラルアメリカンゲームやパンアメリカンリーグといった国際大会に出場したこともあり、アメリカ本土の大学から奨学金を得たポンセは"母国"を離れることになった。

 本当の意味でスキルアップしたのはこの時からだと言うが、全米のみならず世界各国から逸材が集まる大学のレベルではそれまでと同じようにはいかなかった。挫折し、野球から離れた時期もあったという。そんなポンセにあるスカウトがかけた言葉が、彼の人生を変えることになる。

「肩は強いほうじゃないけど、グラブさばきは悪くない。ファーストをやったらどうだい」

 苦手な守備より得意な打撃をアピールすることで野球に復帰したポンセに、プロから声がかかった。

【念願のメジャーデビュー】

 1980年、ポンセはミルウォーキー・ブルワーズ傘下のアドバンス・ルーキー級ビュートでプロデビューを果たす。MLBドラフトにかからなかったアマチュアFAとしてのプロ入りだったが、その後、順調に階段をかけ上がり、84年には3Aまで昇格した。

「この頃、オフになるとプエルトリコのウインターリーグでプレーしていたんだ。ポンセ・レオーネスというチームでね。ポンセがポンセでプレーしたんだよ(笑)。家(リオピエドラス)の近くにもチームはあったんだけど、プエルトリコにもドラフト制度があって、自分の行きたい球団に行けるわけではないんだよ。今はハイウェイができて便利になったけど、当時は2時間弱、自分でドライブして球場に通ったよ」

 当時のウインターリーグにはバリバリのメジャーリーガーも多数参加していた。彼が所属していたポンセ・レオーネスにも、ビッグネームが参加していた。

「カージナルスのデイビッド・グリーン(のちに近鉄でプレー)や、足の速い盗塁自慢の......そうリッキー・ヘンダーソン。彼も一緒にプレーしていたよ」

"世界の盗塁王"リッキー・ヘンダーソンは、1980−81年シーズンのプエルトリカンリーグのシーズン盗塁記録を打ち立てている。彼らの姿を間近で見たポンセはメジャーへの思いを募らせていく。そして85年、ついにメジャーデビューを果たすことになる。

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