和田豊が振り返る92年のタイガース快進撃 「亀山努という計算外の選手が出てきて、チームに新しい風を吹き込んだ」
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:和田豊(前編)
選手、コーチ、監督、フロントと一度も途切れずに39年。タイガース一筋で過ごしてきた和田豊のプロ野球人生は、優勝で始まった。
千葉・我孫子高から日本大を経て、1984年のドラフトで3位指名を受けて入団。球団初の日本一に輝いた85年がルーキーイヤーだった。新人ながらベンチ入りしていた。それだけに、最後まで優勝を争いながら僅差の2位に終わった92年、勝ちたい気持ちは誰よりも強かったのではないか──。現在は二軍監督を務める和田に聞く。
1992年は選手会長としてチームをまとめた和田豊氏この記事に関連する写真を見る
【唯一の日本一経験者】
「92年は僕のレギュラー時代では唯一、優勝争いをした年なので、いい面でも悪い面でも忘れられません。それまでの5位、6位からの2位でしたけど、もちろん喜びなんて一切ないですよ。あの時、レギュラーで出ているなかでは僕だけが優勝経験者で、選手会長になったことも大きくて、何とか勝たせたかった、勝ちたかったっていう悔しさだけが残っています」
そう振り返る和田は78年、我孫子高1年時に夏の甲子園に出場。東都大学野球の日本大では巧打の内野手として活躍し、3年春に首位打者を獲得。同年から2年連続で日米大学野球日本代表となり、84年のロサンゼルス五輪では日本の金メダル獲得に貢献。多くの実績を引っ提げて入った85年は、おもに内野の控えで39試合に出場、先発も8試合と貴重な経験を積んだ。
レギュラー獲得は4年目の88年。つなぎ役の2番として小技も生かし、1番に入った90年にはリーグ5位の打率.304。選手個人としては順調に成長していた。が、その反面、チームは86年に3位に下降すると、87年から2年連続最下位に沈む。その間に吉田義男監督から村山実監督に交代したが、浮上しても5位と低迷。90年に中村勝広監督に代わっても最下位に逆戻りした。
すると球団はオフに積極補強。ダイエー(現・ソフトバンク)と5対4のトレードを敢行するなど大胆に戦力を入れ替えたなか、ロッテから加入した高橋慶彦には、広島時代に魅せた俊足強打の再現が期待された。こうした動きを、選手たちはどう見ていたのか。
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著者プロフィール
高橋安幸 (たかはし・やすゆき)
1965年、新潟県生まれ。 ベースボールライター。 日本大学芸術学部卒業。 出版社勤務を経てフリーランスとなり、雑誌「野球小僧」(現「野球太郎」)の創刊に参加。 主に昭和から平成にかけてのプロ野球をテーマとして精力的に取材・執筆する。 著書に『増補改訂版 伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)、『根本陸夫伝 プロ野球のすべてを知っていた男』(集英社文庫)など