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プリンスホテル最後の指揮官が語った、初の都市対抗優勝から衝撃の廃部までの顛末 (5ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 プロ以上のアマチームをつくる。そのためには、ちまちました野球ではなく、ダイナミックでスピーディーなベースボールをやる──。プリンスホテル野球部結成に向けて、のちに監督になる石山建一が掲げた目標と理想。はたして、どこまで達成され、実現したのか。チームを都市対抗初優勝に導いた石山に聞く。

「プリンスの場合、選手がよくなるとみんなプロに持っていかれたわけです。だからチームとしての完成期はなかったし、その意味ではプロ以上にできなかったかもしれません。ただ、個々によってはそれだけの力をつけていったから、プロで活躍できる選手も多かったんだと思います」

 とはいえ、当然ながら、プリンスホテル=プロ養成所ではない。あくまでも社会人野球のチームであり、最終的には社会人の強豪、名門となった。

 だが、一期生のインパクトはあまりにも強烈だった。1978年、ドラフト指名候補を含む大学野球のスターが続々と入社し、それが後々までつづくプリンスのイメージを決定づけた。言わば、プロ野球界を刺激するアマチームだった。もっとも、それだけの逸材が揃いながら「練習は厳しくなかった」という元選手の証言もあったが、それはなぜだったのか。

「一期生に高校生が多かったからです。それも、こちらでリストアップしたのとは違う選手ばかり。本来、そういう高校生は採用しないはずだったのが、外部のチーム関係者と本社との間にある思惑があって、補充のような形で入れていたんです。

 ただそうでなくとも、東西のいろんな大学リーグから選手を集めましたから、それぞれにやってきた練習の質と量が違う。すべて早稲田式で統一できないことから、高校生もついてこられる練習内容にしたのです。それでもプロに行く連中は個々にみっちりやるだろうからと」

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