プリンスホテル最後の指揮官が語った、初の都市対抗優勝から衝撃の廃部までの顛末 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

 前年、88年のドラフト。プリンスホテルから4番の中島輝士(日本ハム1位)、3番の小川博文(オリックス2位)、エース級の石井丈裕(西武1位)と、一挙に3名が指名されて入団。3名とも全日本メンバーとしてソウル五輪でも活躍した逸材だけに、チームは大幅な戦力ダウンを余儀なくされた。周りから「プリンス史上、最低のチーム」という声が聞こえてきていた。

「でも、最低なのは自分たちで自覚してましたから、キャンプではみんな悲壮感を持って、お互いがお互いに負けないように練習するだけでした。野手だったら素振りの回数を競い合うとか。もちろん数やればいいわけじゃないけど、自然とそうなっていましたね。別に監督、コーチから『おまえたちは弱いんだ』とか、発破をかけられたわけでもなく」

 自発的な猛練習を経て足立は完全にレギュラーとなり、チームは春のスポニチ大会で優勝。周りの評価を一蹴する結果を自信にして夏の都市対抗に臨むと、予選では苦闘の末、第三代表での出場を決めた。時代が昭和から平成に変わった年、第60回の記念大会につき、開幕前夜には新高輪プリンスホテルで祝賀会が開催された。

 都市対抗の予選が始まる前、石山はホテル職員に言われていた。「ウチで祝賀会をやる以上、もしも大会に出られなかったら、野球部全員で皿運びをしてもらいますよ」と。それが冗談に聞こえないほど戦力に不安はあったが、1回戦のJT戦に6対3で勝利。2回戦のトヨタ自動車戦は4対3と接戦を制した。

「戦力は本当になかったです。打線は大砲がいなくて、なんとかつなぐ攻撃で。ピッチャーもエースがいないから継投、継投で。だからもともとプリンスって、個人技が光るスマートなイメージがありましたけど、その時は泥臭い野球でしたね。たとえば、1アウト、ランナー二塁だったら当然、右バッターは逆方向、左バッターは引っ張る。1点をとり、1点を守る野球ですよ」(石山)

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