藤井康雄は1年間ヒット1本でも4番に抜擢され覚醒 ドラフト4位で阪急入り→プロ通算282本塁打の強打者となった

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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消えた幻の強豪社会人チーム『プリンスホテル野球部物語』
証言者〜藤井康雄(後編)

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 安定して勝てるチームにすべく、好素材の高校生を採用して育てる──。助監督の石山建一が示した新方針のもと、1981年、藤井康雄は泉州高からプリンスホテルに入社した。だが、石山は都市対抗予選敗退の責任をとる形で辞任。監督の稲葉誠治は変わらなくとも、采配は石山が振り、チームづくりも一任されていたから、影響は小さくなかった。藤井自身はどうだったのか。

阪急、オリックスで16年間プレーし、通算282本塁打を放った藤井康雄阪急、オリックスで16年間プレーし、通算282本塁打を放った藤井康雄この記事に関連する写真を見る

【入社4年目までは鳴かず飛ばず】

「とにかくチームとして都市対抗優勝を目指すという目標に変わりないので、自分がやることは一緒でした。ただ、翌年も予選で負けたら、オフだけだった終日勤務が夏から始まったり、寮で飲み放題だったビールが取り上げられたり(笑)。ホテルのシェフがつくる食事面は変わらず十分で、ありがたかったですけど、勝てないといろいろ制限されるんだなと」

 2年連続で都市対抗を逃したプリンスは、会社からの締めつけも受けながら猛練習。83年は第一代表で都市対抗出場を果たし、藤井は1回戦の日本生命戦で初出場。代打から一塁守備に就いて2打席に立ったが無安打に終わり、チームは敗退した。

 翌84年、プリンスはスポニチ大会で初優勝。都市対抗は2年連続して第一代表で出場し、1回戦の住友金属戦、藤井は「7番・一塁」で大会初のスタメン。チームが11対9という打ち合いを制したなか、藤井も3打数1安打と結果を出した。だが、2回戦は日産自動車に3対4のサヨナラ負け。この試合ではベンチに控えていた藤井の出番はなかった。

「チームが強くなって、僕自身、都市対抗には出られましたが、どちらかと言えば、そこまでの4年間は鳴かず飛ばすでした。ただ、入社4年目の終わりぐらいに石山さんが帰って来られたんです。それからですね、ゲームにレギュラーで使ってもらえるという形が出だしたのは」

 助監督を辞任し、関連会社の西武商事へ左遷された石山だったが、その背景にはプリンスホテル社長、堤義明の意向があった。同じ早稲田大出身、堤は自らプリンス野球部の立ち上げを石山に託したが、会社と衝突したうえで辞めた。そこで「石山は野球のことをわかっても西武グループをわかってない」と、グループ180社の資材を扱う西武商事に石山を預け、教育したのだった。

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