藤井康雄は1年間ヒット1本でも4番に抜擢され覚醒 ドラフト4位で阪急入り→プロ通算282本塁打の強打者となった (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

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 そうして4年半が経った84年秋、石山の野球に対する情熱が消えていないことを、堤は記者を通じて確認。すぐに呼び戻すと監督に任命し、稲葉を部長とした。秋季練習からチームに復帰した石山は早速、自身の方針で入社させた高校出の選手たちをチェック。なかでも藤井が実力を出しきれていない現状を見て、打撃フォームの改造に一から取り組むことになった。

【打撃フォーム改造で開花】

「石山さんと取り組んだのは、いろんなことを試しながら、それが自分に合っているかどうか......というものでした。これをやってもしっくりこない、でもこれは何となくわかる、といった練習の繰り返しで、自分のバッティングの形ができていったのかなと思います」

 首の角度からバットの構え、膝の使い方、タイミングの取り方まで、自分にとっていちばん合う形と動作が見つかるまで試行錯誤を繰り返した。あたかも体の各パーツを分解するかのように感じた藤井が、「監督さん、こんなバラバラにして打てますか?」と不安の声を発すると、「今はバラバラにした部品を組み立てていてるところなんだから心配するな」と返された。

「だんだんと自分に合う形と動きがわかって、『あっ、これだな』っていうものが見えてきました。ステップした時に軸足の股関節に重心が乗った状態、俗に言う"タメ"がわかるようになって、変化球への対応力が出てきて、ゲームでも打てるようになっていったんですね。でも、まさかいきなり4番を打たせてもらうとは思わなかったです」

 秋季練習が終わる頃のグラウンド、石山に呼び止められ、「おまえ、来年から4番でいくぞ」と言われた。傍らで聞いていたほかの指導者も選手も、「なに言ってるの、1年間でヒット1本のヤツが4番なんて打てるわけないじゃないか」と口を揃えた。実際、公式戦で藤井が打ったヒットは都市対抗での1本だけだったから、無理もなかった。

 それでも、翌85年3月のスポニチ大会から藤井は4番に座って結果を出し、都市対抗予選では3試合で16打数6安打と活躍して、第一代表での大会出場に貢献。本大会では1回戦の川崎製鉄神戸戦、チームは2対4と敗れたが、藤井自身は3打数1安打1打点。4番の仕事を果たすと、全関東に選ばれて中華杯大会に出場し、翌86年には初めて全日本に選出される。

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