石毛宏典が考える、渡辺久信が西武の監督1年目しか優勝できなかった理由 「自主性」がもたらしたプラスとマイナス (2ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • photo by Sankei Visual

【監督として2年目以降に優勝できなかった要因】

――選手の自主性を尊重していて、片岡保幸選手(当時の登録名は易之)や栗山巧選手、中島宏之選手(当時の登録名は裕之)といった若い選手たちが伸び伸びとプレーしていた印象があります。

石毛 やはりプロなので、自己責任で取り組むことはすごく大切なことです。ただ、そういう環境で自分を律することができる選手はいいのですが、律せない選手も多い。ナベちゃんは監督就任1年目でリーグ優勝、日本一にもなりましたが、翌年は4位と低迷。以降も優勝できませんでしたよね(監督を6年間務め、リーグ優勝は1回)。

 台湾での監督時代と違い、自主性を重んじて伸び伸びやらせて1年目で優勝できたので、監督も選手たちも「俺たちはこのやり方でいいんだ」という意識が生まれたのかもしれない。それで2年目以降、選手の自主性に任せすぎたことが、優勝できなかった要因のひとつなのかなと。西武がかつて「常勝軍団」と言われて続けて何度も優勝できたのは、広岡さんの「教育・管理」といったものが根づいてことが大きかった。2年目以降はそれが十分にできていなかったんだと思います。

――渡辺さんの場合、監督就任時は選手との年齢も近かったですし、"兄貴分"という印象もありました。

石毛 選手との距離が近かった分、伸び伸びできたのかもしれないし、ナベちゃんのさっぱりとしていて明るい人間性そのものがチームカラーになっていったのかもしれませんね。先ほども言ったように2年目以降はうまくいかなかった部分もあるかもしれませんが、そういったことがプラスに働いて、1年目のリーグ優勝や日本一があったとも思いますし。

【苦しい今のチームを救うためのGMの役割】

――監督を退任された後は、西武のシニアディレクターなどを経てゼネラルマネージャー(GM)に就任されました。

石毛 球団の経営者は人を見る目がなければいけないと思いますが、ナベちゃんがそういう方々のお眼鏡にかなったということでしょう。選手として西武で長く活躍してくれて、台湾に渡っていろいろな経験をして知見を広げ、西武の監督としてはリーグ優勝・日本一も成し遂げた。性格もいいし、すべてにおいてGМに適した人間という判断だったと思います。

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