検索

「早稲田の1番をピッチャーにつけさせるなんて」斎藤佑樹は巻き起こる批判にも負けずさらなる進化を目指した (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

【なぜ背番号1だったのか...】

 2年の春は、大学に入って初めてリーグ戦の優勝を逃したシーズンでもありました。明治に勝ち点5の完全優勝を許し、僕は9試合に投げて3勝2敗、防御率は1.75。このシーズンから、僕の背番号が16から1に変わりました。どういう経緯で1番をつけることになったのか、そこの記憶は残っていません。

 そもそも早稲田大学の野球部では背番号1から8までは野手、9は欠番(1972年の日米大学選手権で送球を頭部に当てて退場、5日後に19歳で他界した東門明への弔意から)、10は主将(東京六大学では監督が30、主将が10に決められている)、11からがピッチャー、20番台はおもに外野手がつけるという伝統があります。早稲田のエースナンバーは11、正捕手は6......つまり、背番号1をピッチャーがつけるのは異例だったそうです。僕は2年、3年の2年間、背番号1をつけていました。

 そのことで、野球部のOBから應武監督への批判があったことはあとから聞きました。僕は僕で、1年で結果を残したことで「2年目のジンクス」という言葉をあちこちで聞かされていて、「調子に乗るなよ」「まだまだだぞ」「そんなにうまくいくわけないぞ」と言われまくっていました。

 たぶん、背番号も「斎藤だからって早稲田の1番をピッチャーにつけさせるなんて」という不満が一部の先輩方のなかにあったんでしょうね。でも、應武監督には應武監督の考え方があったんだと思います。監督は昨秋、お亡くなりになってしまいましたから、その理由を聞くことはもうできませんが......。

 大学2年の春を終えて感じたのは、ここまではうまくできすぎたかな、ということでした。1年のリーグ戦では一度も負けなかったんですが、そういう時に、そんな簡単なものじゃないぞって、どこかで思ってしまう自分がいるんです。

 僕はそもそも昔から、現状に満足せず、次はどうしようと考えるタイプでした。よくないことを忘れると同時に、成し遂げたこともけっこう忘れてしまいます。だからさらにレベルが上の大場さんとか加藤さんを目標にしようと思っていました。プロでドラフトにかかるためには、このぐらいのピッチャーにならなければダメなんだと思ったからです。

*     *     *     *     *

 2年春、大学に入って初めてリーグ優勝を逃した斎藤。それでも身体が大人に変わる時期、彼はピッチャーとしての劇的な進化を形にして示した。2年秋のシーズン、9試合に投げて7勝1敗、防御率は0.83。投げるスタミナも、ボールの力もついて、ついに充実期を迎える......はずだった。しかしそんな斎藤を、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。

(次回へ続く)

著者プロフィール

  • 石田雄太

    石田雄太 (いしだゆうた)

    1964年生まれ、愛知県出身。青山学院大卒業後、NHKに入局し、「サンデースポーツ」などのディレクターを努める。1992年にNHKを退職し独立。『Number』『web Sportiva』を中心とした執筆活動とともに、スポーツ番組の構成・演出も行なっている。『桑田真澄 ピッチャーズバイブル』(集英社)『イチローイズム』(集英社)『大谷翔平 野球翔年Ⅰ日本編 2013-2018』(文藝春秋)など著者多数。

フォトギャラリーを見る

4 / 4

関連記事

キーワード

このページのトップに戻る