コーチには「絶対に手を上げるな」昭和の時代に暴力禁止を徹底 江藤慎一は日本初の野球学校を設立した (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 共同

 江藤が校長としてもうひとつ徹底したものがあった。寮やグラウンドにおける暴力による指導の禁止だった。コーチにも絶対に手を上げるな、と厳命していた。そして生徒には意見があれば、たとえ年上の者であっても、たとえどんなに地位が上の者であってもはっきりと述べろ、とことあるごとに伝えていた。

 開校して3か月ほど経った頃、講義に目黒高校のラグビー部監督であった梅木恒明氏を招いたことがあった。同校を高校日本一に5回導いた梅木監督は、徹底したスパルタ指導で知られていた。実際、この時の講演も自身の軍隊式指導の効果を語るものであった。

「私は夜中でも集合をかけて、10秒以内に起きてこない生徒はゲンコツで殴ります。人は身体で覚えるものです」

 梅木は緊張感を持たせるためとして、こんな逸話も話した。自分はいつも割れたビール瓶を持っている。突然生徒の前に差し出して、避けられたら100円を渡し、避けられなかったら、100円を徴収して尚且つ、身体に傷が残るので痛みで学ぶことができるというものであった。

 それこそ、梅木の講義の最中は大きな緊張が走った。江藤塾のなかには、卒業後に指導者を目指す者もいる。質疑応答の時間になり、最年長の生徒、福岡から来た松永高志が、声を上げた。彼は九州産業大学の野球部を半年で辞めていた。

「先生のお考えはそうかもしれませんが、暴力は大反対です。ボクは先輩に殴られて、野球に嫌気がさしました。犬畜生として扱うのではなく、人間として扱ってほしいと思うのです」

 江藤はこれを聞いて自分の考えが浸透していることの嬉しさをかみしめた。著書『野球は根性やない』(大和書房)で江藤は日本野球体育学校についてこう書いている。

「人はよくうちの学校を戸塚ヨットスクールと間違える。落ちこぼればかりを集めて、暴力で生徒をつなぎとめる。親の手に負えない子ばかりの収容所、それがヨットと野球を取りちがえたと思われがちである。こっちはいい迷惑である。私らの学校はあくまでもプロの技術を求める集団でなくてはいけないのだ。野球の技術もあることながら、本当の野球の知識をおぼえさせなくてはいけないのだ。それには力づくで教え込んだところで何の役にも立たないのだ」

 現役時代の豪快なイメージから、江藤が問題を起こした不良少年たちを野球における鉄拳制裁で更生させていると勝手に目されていた。しかし、加藤は仕事を進めていく上で、何も考えていないようですべてに渡って緻密であることに気がついていた。

「江藤さんはずっと毎日、野球ノートを書いていました。今では当たり前でしょうが、当時、そんな野球選手はいませんでした。バッティングもフォーメーションも極めて綿密に考えている人間でした」

 江藤は中学生時代から、綴っているノートを校長になってからも継続していたのである。

 日本野球体育学校の生徒たちは、過疎地と言われた中伊豆の地元の人たちとの交流も重ねていった。天城地区対抗の運動会で選手たちは大滝地区代表で出場して、大いに盛り上げた。やんちゃで知られた10代の少年たちが、地域の人々に感謝され、また自分たちも再び野球ができる喜びに浸っていた。

(つづく)

\連載をまとめたものが1冊の本になります/
『江藤慎一とその時代 早すぎたスラッガー』
木村元彦著 2023年3月22日(水)発売 1760円 ぴあ

プロフィール

  • 木村元彦

    木村元彦 (きむら・ゆきひこ)

    ジャーナリスト。ノンフィクションライター。愛知県出身。アジア、東欧などの民族問題を中心に取材・執筆活動を展開。『オシムの言葉』(集英社)は2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞し、40万部のベストセラーになった。ほかに『争うは本意ならねど』(集英社)、『徳は孤ならず』(小学館)など著書多数。ランコ・ポポヴィッチの半生を描いた『コソボ 苦闘する親米国家』(集英社インターナショナル)が2023年1月26日に刊行された。

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