コーチには「絶対に手を上げるな」昭和の時代に暴力禁止を徹底 江藤慎一は日本初の野球学校を設立した (2ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 共同

 天城の球場が竣工すると、江藤は観光協会の協力を得て、営業を止める予定になっていたりん泉という旅館を寮として借り受けた。

 野球場についてはその管理をすることで、使用も許された。練習をする場所と寝泊まりする施設を確保すると、雑誌や新聞に「日本野球体育学校が開校します!」という広告を打って入校する選手を募集した。校名がすべてを表していた。日本初の野球の学校である。

 1984年、加藤は当時、30歳になっていたが、意を決するように5月31日にスポーツ店を辞めると、伊豆に向かい、この開校の準備期間から無給で江藤のスタッフとして仕えていった。

 加藤は選手を受け入れる寮の事務室に布団を敷いて住まいとし、食事は観光協会の支援者の家でお世話になった。現金収入はその間、まったくなく、それでも献身的に没頭したのは、ひとえに江藤の日本初の野球学校にかける情熱に惹かれたからであった。

「私も野球が好きでしたし、あの熱量を見たら、動かずにはおられませんでした」

 それはうまい選手を集めてプロに行かせるための学校ではなかった。野球をやりたい、継続したい、けれどさまざまな事情でそれができない若者たちにプレーする環境を与えること。さらに2年の在学期間中に個々の技術を伸ばして次のステップに行かせるという目的があった。卒業後の進路はプロを目指す者、社会人に進もうとする者、指導者への道を選ぶ者、すべてをやりきったとすっぱりと辞める者。それぞれに応じてレベルや目標が設定された。

 だから入学に際しては技量を見るセレクションではなく、面接で野球に対して真摯な気持ちで向き合えるかどうかという点だけが問われた。江藤の理念は、「来るものは拒まず」であった。

 日本野球体育学校、通称江藤塾は、学校法人化を目指した。そのために教務部長に文部省OBの大場隆雄を据えて授業カリキュラムを作成し、申請書類も準備していたが、初年度は学生が23名しか集まらなかった。申請資格は在籍学生数が40名以上なので、申請は見送られた。任意団体のままであったが、それでも1985年4月10日には、湯ヶ島町の講堂を借りて、堂々とした開校式が行なわれた。

 集まった生徒たちは、15歳から23歳まで、さまざまな背景を背負っていた。中学は卒業したものの高校には行かず、けれど野球はしたいという者から、特待生で大学に入ったが、寮やグラウンドでの体罰に耐えかねて、退部をして学校を追われた者。なかには関東の高校で1年生の時にショートのレギュラーで甲子園に出場するも、上級生に妬まれて殴り合いになり、それが原因でグレて暴走族に入り、交番を襲って退学になった人物もいた。保護観察中であったが、保護司が江藤の出した広告を見て、もう一度好きな野球を伊豆でやったらどうかと勧められたのである。

 加藤はこれら、複雑な背景を持つ23名の生徒たちを一手に引き受ける寮監となった。

「初年度は正直、どうしようもない子ばっかりです。それでも野球によってのつながりなので、たとえ素行は悪くても、筋は通っていましたし、僕の寮での指導も難しくなかったです。始まった学校は、毎朝、起床、掃除、朝食、講義、そして実技でした」

 野球の指導はアマチュアの指導者資格を取っていた元ロッテの土屋弘光が行なってくれた。これは江藤のこだわりで、古い野球道を排し、ドジャース帰りの土屋に世界の先端をいくベースボールを教えてもらうという試みであった。「セの牧野(茂)、パの土屋」とうたわれた理論派コーチは、技術も戦術も丁寧に指導していってくれた。野球を教える以上は、本場アメリカのメソッドを必ず常に意識した。

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