元阪神・田村勤はプロ初登板で被弾し、首脳陣の交代要請を無視。コーチはキレて野手はあ然としていた (4ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

「そういうこともまだわからなかったわけですけど、大石さんに『明日も行くぞ』って言われて、『よし!』と思いました。ひとり打ちとったということが、次にどんどんどんどんつながって。現に、小早川さんにはそれから1本も打たれなかったですね」

 小早川は左の強打者であり、左対左でデビューした田村だったが、当初から左のワンポイントではなかった。左のサイドスローは左打者にとって厄介だが、田村の場合、どちらかと言えば、右打者に食い込むようなボールに威力があった。

「左バッターよりも右バッターのバットを折ることが多かったですね。社会人だったら詰まりながらもホームランにされていたボールが、詰まったら折れる。当時の社会人は金属バットでしたから、根っこに当たっても折れないで飛んでいっちゃうんです。それがプロでは『ヤバ!』って思ったボールがバットが折れてピッチャーゴロ。この差は大きいと感じましたね」

 社会人出身の投手の利も生かし、果敢に攻める投球が光った田村は1年目から50試合に登板。チームが開幕2試合目から最下位に沈み続けていたなか、大石コーチからひとつの方針が示されていた。

「夏でした。『来年に向けて、抑えの練習するぞ!』って言われたんです。抑えといっても、当時は1イニング限定じゃないですから。同点でも、負けていても、ランナーがいる場面でもいってましたから。ピンチの時は、いつでも行くぞっていう意気込みでしたよ」

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(=敬称略)

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