もしあの巨人戦でKOされていたら...中込伸が「山田勝彦のおかげ」と感謝する92年の覚醒秘話 (2ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

 定時制で学ぶ高校球児を4年時に転校させ、球団職員として採用する──。これは81年、西武球団管理部長の根本陸夫が、熊本工高定時制の伊東勤を獲得した時と同じ"囲い込み"の手法である。練習生制度の廃止以降、そのような裏技は使えなくなったが、当時の中込はそこまでして獲りたい逸材だったのだ。

 阪神の球団寮・虎風荘で生活し、日中は背番号99のユニフォームを着て二軍練習に参加。早めに練習を切り上げて通学する毎日送った中込は、88年のドラフトで阪神から1位指名を受けた。球団はスター候補として背番号20を勧めたが、中込は愛着ある99番を希望して受け入れられた。正式に入団すると、コーチの指導は厳しさを増した。

「大石さん、ずっとつきっきりでした。全体トレーニングのあと、個人で大石さんのトレーニングを受けるんです。めちゃくちゃ厳しかったですけど、理不尽さはなくて、自分で自信がつく練習をさせてもらいました。僕はすぐ調子に乗るほうだったから、厳しい人がいてくれたおかげでなんとかできた。だから、恩師ですよね」

2回4失点からの勝利投手で自信

 指導者に恵まれた反面、入団2年目の90年8月には右ヒジ手術。順調に成長できたわけではない。91年は開幕一軍も、先発として結果を出せずに二軍暮らしとなった。だが、そこで基本からやり直したことが奏功し、9月22日の大洋戦でプロ初完投初勝利。これが翌92年への自信につながって開幕ローテーション入りを果たす。この年の初登板は4月8日の巨人戦だった。

「初回にいきなり2点とられて、2回にはピッチャーの斎藤(雅樹)さんに2ランホームラン打たれて、序盤に4失点ですよ。でも、3回に8番の山田(勝彦)がタイムリーを打ってくれた。そのおかげで僕は代打を出されず、そのまま打席に入って送りバントになった。だから続投できて、勝ちを拾えた。もしそのままKOされていたらどうなっていたか......僕がその年に伸びることができたのは、山田のおかげでもあるんです」

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