濱中治が振り返る阪神「暗黒時代」からの脱却。野村克也に「頭を使う大切さ」、星野仙一に「闘う姿勢」を教わった (2ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by SankeiVisual

野村克也、星野仙一に教わったこと

――故障した2003年シーズン、濱中さんは開幕当初から絶好調でした。プロ7年目のこの頃に、バッティングのコツを会得したんですか?

濱中 野村克也監督の3年目、2001年頃から試合に出させてもらうようになって、翌年に星野仙一監督に代わり、田淵幸一打撃コーチと一緒にいろいろ取り組んだ成果が出始めたのが2003年でした。「あ、こうやったらボールは飛ぶんだ」「こうすればホームランになるんだ」と、ある程度わかってきた頃でのケガだったので、ショックは大きかったです。

――1997年に阪神に入団した濱中さんは、いわゆる"暗黒時代"から、野村監督、星野監督時代を体験し、2003年、05年のリーグ優勝を経験しています。やはり、この期間にチームのムードは大きく変わっていったのですか?

濱中 変わりました。特に星野さんが来てからですね。僕にとっては、野村さんに頭を使う大切さを教えてもらって、星野さんに闘う姿勢を教えてもらいました。

 具体的に言えば、野村さんからは「配球の大切さ」を学びました。それまでは「変化球待ちでストレート対応」だったけど、野村さんに配球を教わって、「変化球待ちで変化球を打つ」ことができるようになった。僕のプロ初ホームランも「変化球待ちで変化球」を打ったものでした。

――2001年5月13日、広島東洋カープの河野昌人投手から放ったサヨナラ3ランホームランですね。

濱中 この時に初めて、スライダーを待ってスライダーを打ちました。3ボール1ストライクだったのかな? 河野はスライダーが得意だったので、「ここでストレートは投げないだろうな。カウント狙いならスライダーだろう」と思ってスライダーを打ったんです。この時に「あ、野村さんが言いたかったのはこういうことなのかな?」と思って、そこからは必死にチャートを見たりして、配球を学ぶようになりました。

――具体的に、どのように配球を学んでいったのですか?

濱中 野村さんはいつもベンチで「次はスライダーや」「次はフォークだ」とボソボソ言っていました。僕はいつも野村さんの近くに座ってそれを聞いていたんですけど、ほとんどその通りになったんです。野村さんが言っていたのは、「カウントが悪くなった時に、このピッチャーはこのボールを投げてくる」ということ。ピッチャーは困った時に、自信があるボールを投げてくる。この言葉があったから、僕の初ホームランが生まれたのかもしれないですね。

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