濱中治が振り返る阪神「暗黒時代」からの脱却。野村克也に「頭を使う大切さ」、星野仙一に「闘う姿勢」を教わった (3ページ目)

  • 長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi
  • photo by SankeiVisual

星野仙一が阪神を「闘う集団」に変えた

――星野監督から学んだ「闘う姿勢」とはどういうことですか?

濱中 星野さんから学んだことで、とても印象に残っているのが「迷ったら、前に出ろ」ということでした。本当にいつもこの言葉を口にしていたけど、「悩んで後ろに下がるより、プラス思考で前を向いて野球をやるぞ」と教わって、気持ちの面で強くなれたのかなと思います。

――濱中さんが故障した2003年、星野監督の就任2年目に阪神はリーグ優勝します。チームのムードはすでに一変していたのですか?

濱中 2001年まではずっと最下位だったんですけど、星野さんが就任した2002年には開幕7連勝したんです。最終的には4位でしたが、チームの中では「来年はいけるんじゃないか?」というムードになっていましたね。そして、この年のオフに金本(知憲)さん、伊良部(秀輝)さん、下柳(剛)さんらが入ってきて、さらにいいムードになりました。

――充実した補強によって、「今年は優勝だ」という思いがさらに強くなった?

濱中 特に金本さんの加入が大きかったと思います。僕も含めて、それまではちょっとした筋肉痛でも休むような選手が多かったんです。でも、金本さんは絶対に休まなかった。試合に出ることの大切さを教わりましたね。この頃から、選手間の競争意識も強くなったと思います。自分が休むと、代わりの選手にチャンスが与えられてしまう。チーム内で競争が始まるから、個々のレベルも上がっていく。この頃は、そんな感じでした。

――濱中さんにも競争意識が芽生えましたか?

濱中 僕は赤星(憲広)さんと競うことになりました。最終的に、2人とも試合に出ることになるんですけど、2003年のキャンプでは死に物狂いで練習をして、「レギュラー獲り」を目指しました。その結果が、この年の優勝だったという気がします。

――でも、幸先のいいスタートダッシュを飾ったにもかかわらず、肩の脱臼、手術によって出場機会は激減することになってしまったんですね。

濱中 2003年は開幕当初からホームランも出ていたし、打点もトップを突っ走っていたんです。何とか日本シリーズには間に合ったけど、結局、その翌年も右肩を故障して、2度目の手術をすることになったんです......。

(後編:ケガと度重なる手術で「酒に逃げた」。ファンからの寄せ書きで改心し、15年を闘い抜いた>>)

■濱中治(はまなか・おさむ)
1978年生まれ。和歌山県出身。和歌山県立南部高校から、1996年のドラフト3位で阪神に入団。2001年にブレイクを果たして4番も務めた。2003年に右肩を痛め、3度の手術を行なうも復活し、2006年にキャリアハイをマーク。2008年にオリックス・バファローズ、2011年にヤクルトに移籍。2011年オフに引退後は指導者や解説者などで活躍している。

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