斎藤佑樹は「自分にもこういう感情があったのか」と驚くほどの執念で甲子園出場を決めた (4ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

 あれができたのは、僕のほうに絶対にバットに当ててやるという執念があったからだと思います。それは、ケンカじゃないけど、プレー以外のところでも相手を圧倒するくらいじゃないと、この空気に呑まれてしまうという、そんな緊張感のある雰囲気が生み出したものでした。

 僕たちは秋の東京大会で優勝してセンバツへの出場をほぼ確実としましたが、同時に東京代表として明治神宮大会への出場権も獲得しました。初戦、東海大会で優勝した岐阜城北に勝って(11−3、8回コールド)、準決勝で駒大苫小牧と初めて対戦します。

 2年連続で夏の甲子園を制覇していた駒大苫小牧には田中将大がいました。その試合、先発は田中じゃなかったんですけど(岡田雅寛)、僕たちが初回に2点、4回にも1点を追加して、3−0とリードします。その回の途中から、田中がマウンドに上がりました。その田中がすごかった。

 とにかくバットに当たらないんです。ほとんどが三振でした(17個のアウトのうち、13個が三振)。試合後に乗ったバスのなかで、和泉監督が「あそこに勝てないと甲子園で優勝できねえぞ。どうやって勝つ?」と聞いてきたので、僕はすかさず「1対0です」と答えました。

 そうしたら監督も「お、そうか、俺も1対0なら勝てると思う。1対0を目指して頑張ろうや」と......実際、あの試合は夏の三高に負けた時に比べたら、敗北感はそんなになかったんですよね。本間(篤史)にホームランは打たれましたが、それ以外に打たれた感じはあんまりなかった。

 最初はこっちがイケイケだったのに、途中からシュンとなってしまったのは、田中君が出てきたからです。試合が終わった時には「完封できない相手じゃないし、1点をとれない相手じゃない、でもとれるのは1点だ」と本気で考えていました。その日から、「駒大苫小牧に1対0で勝つ」ことが、僕の頭のなかを占めるようになりました。

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 秋の東京大会で日大三に勝って、明治神宮大会で駒大苫小牧と戦ったことで、斎藤には初めて全国制覇への道筋が見えた。そして2006年春、早実は18年ぶり18度目のセンバツ出場を決める。斎藤がついに甲子園のマウンドに立つ。

(次回へ続く)

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