江藤慎一の専属バッティング投手だった大島康徳。打撃練習なのにニューボールを使う決まりごとに驚いた (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 話が少しそれたが、江藤のプロ11年目1969年は、球界きっての名将を迎えて幕が開いた。

 この年に入団して来た高卒選手に生前、当時のことを聞いた。

 1968年、大分県立中津工業の大島康徳は高校で野球をはじめて2年半で中日からドラフト3位指名を受けた。

「私は中学1年の時にテニス部、中学2年生からバレーボール部、野球は一切やっていません。好きではなかったのです」。ではなぜ、高校から始めたのか。「相撲をやるのが嫌だったんです」

 中津工業に入学したら、そこは相撲の強豪校。5歳の時に右目をほぼ失明しながら、昭和の名横綱に昇り詰めた双葉山を生んだ宇佐市を内包する大分県は、相撲が盛んな土地である。運動能力に秀でた大島は中学時代、宇佐神宮の相撲大会に学校代表で駆り出されて個人優勝をしている。

 そんな逸材がリクルートされるのは当然だったが、大島は廻しを締めるのが大嫌いで逃げ回っていたら、相撲部の監督が、野球部の監督に伝えた。「こういう面白い生徒がひとりいるが、野球をやっても伸びるんじゃないかと思うんですと。それでやることになったわけです。でも最初は嫌で嫌でどうやって逃げ出してやろうかとそればかり考えていました」

 リトルシニアもボーイズリーグも発足する以前である。それどころか、中学時代は軟球すら握ったことのなかった大島の才を見出したのは、本多逸郎スカウトであった。大島本人はプロに行く気持ちさえなかったが、大分県大会で見たたった一本のホームランで本多はその潜在能力にかけることにした。

 とは言え、まったく無名の選手には球団に対しても保険をかける必要があった。本多は大島に名古屋に来て愛知学院大学のセレクションを受けてほしいと告げた。

 当日、愛知学院のグラウンドには大学野球部の指導者はもちろんいたが、中日球団の関係者も見守っていた。大学との友好関係を利用した入団テストとも言えた。そこで投手登録をされていた大島の投げた球の速さ、打った打球の飛距離は、3位指名に相当すると判断された。こうして後に名球会に入るスラッガーは入団を果たしたが、野球に興味のなかった人間ゆえに入団当初は苦労の連続であった。

 選手寮に入り、まずは投げてみなさいと言われて腕を振った。二軍ピッチングコーチは長谷川良平。身長167センチの小柄な体でエースとして創成期の広島カープを支え、市民球団の資金調達のために広島市内の劇場で歌まで歌ってカンパを集めて来たという小さな大投手は一球を見て言った。「これはピッチャーとしてはダメだよ」

 即座に投手失格の烙印を押された。たとえ150キロを出しても投手のボールになっていなければ、マウンドに上がることはできない。逆に球速は遅くともこれは打者に通用すると判断されれば、戦力として重用される。大島は前者であったが、やがて打者として2000本安打を達成する。

「プロ野球を知らない。そしてドラゴンズ自体を知らない18歳の子どもでした。夜行列車で中津(大分県)の田舎から出て来て、合宿所の門もなかなか叩けずに、前で朝までじっと待っているような子どもがそのままドラゴンズに入っているわけですから、右も左もどころか、何もわからない。入団したら、大将の江藤さんを筆頭に中さん、守道さん、そこに六大学から星野さんが来ているわけですから、すべての人が私にとっては、もう別格の人ですよね。個性の強い人たちは、俺たちは遊ぶから野球をやるんだっていう感じだったですね。いい思いをしたかったら、結果を残せ。それが当時の野球選手でした。豪快であの当時のドラゴンズは18歳の坊主からすれば、これ、どういうおっさんたちの集団だみたいな印象は、やっぱり鮮明に受けました」

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