ドラ1左腕・川口知哉はなぜプロで通用しなかったのか。1年目のフォーム変更が影響「完全にイップスでした」
川口知哉インタビュー 後編
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1997年、平安(現・龍谷大平安)のエースとして夏の甲子園準優勝を果たし、その年のドラフトで4球団競合の末に意中のオリックスへ入団した川口知哉。誰もが前途洋々の未来を想像したが、プロの世界は苦難の連続だった。一軍の通算成績は7年間でわずか9試合、12イニング。0勝1敗、防御率3.75。大半を過ごしたファームでも1試合15四球、7連続四球、シーズン14暴投......苦悩が伝わる"記録"を多く残した。引退後、しばらくは家業を継ぎ、その後、女子プロ野球の指導を10年あまり続け、今春から母校のコーチに就任した。将来を嘱望されたドラ1左腕はなぜプロの世界で羽ばたけなかったのか。川口知哉が振り返る。
オリックスにドラフト1位で入団した川口知哉だったが...この記事に関連する写真を見る
完全にイップスでした
── 一軍の通算成績は、9試合、12イニングに登板して、0勝1敗、防御率3.75。プロですごした7年間は、どのような形で頭に残っていますか。
「面白くなかったですね。高校時代はひたすら走って、とにかく体がしんどかったですけど、プロではメンタルがしんどくて。何もできないシーズンが続いて、入団から4年目くらいまでは悩みっぱなし。期待されながらそれに応えられない......ほんとにしんどかったです」
── 1年目からフォームを崩し、故障も出て、ストライクが入らなくなり、普通に投げられない......。高校時代の面影はどこにもありませんでした。
「完全にイップスでしたね。どの年もキャンプで1年が終わった感じで、あとは何も働いていない。だから、4年目までのシーズン中の記憶はほとんどないんです」
── キャンプでは一軍スタートも、紅白戦あたりで崩れるという繰り返し。3年目の紅白戦では1イニング64球を投げて話題になったこともありました。
「そういう状態が続いて『もう辞めたい』と思うこともありました。ただ、その頃は年数が浅かったので、まだなんとかなると信じてやっていたのですが」
── 振り返れば、1年目のフォーム修正、ここで形が崩れたことがすべてだったのではないかなと......。
「スタートしたところで、自分の持ち味がひとつ消えたというのはありましたね。左足を(深く)折らないことで体を沈めて上がってくるまでの時間がなくなって、左腕を回して上げてくるタイミングがずれた。それを無理して間に合わせようとしたら、今度はヒジと肩に負担がきて。投げ方がどんどんわからなくなって、ストライクも入らない、故障もする......悪循環でした」
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